遊び場

 

 

少し短めの睡眠時間で6勤目。とても元気。言い聞かせる必要もないくらいの稼働率。お腹が痛かったが問題ない。こんなの痛いだけのこと。トイレに行きたい原因にはなっても、気分が悪くなる原因にはならない。

 

とりあえず、日記的日記。

 

仕事はまぁまぁ忙しくて、働いた感があった。先生は2人だと別のことも話してくれるが、本日は3人なので、仕事の話しかしなかった。仕事場で仕事以外の話をするのは息抜きというか仕事上の人格以外でも話せる感じで良き。ただ、自分のことしか話題がないのはどうなのか。僕はあんまりこういう話題では話せない。わざわざ話さなくても問題ないし。政治とか法学とか仕事としても構造の話とか。

 

年齢不詳の新人さんの仕事振りを捉えるに、先生の指示と微妙にズレたことをしているし、わざとやっているのではないかというくらい話を引き延ばしている。文字数が多いのは相手を慮っている訳ではなく、自分の主観の中だけできちんとしようとしているだけなのだろうな。口が回るのは営業畑出身らしいとのことで納得。

 

こういう人が人を慮っているように見られるのだろうなという感じだが、もの読みとしては、言葉が乾いているような気がする。苦手だと思いつつ、僕は無関係に慮ってしまう。昼休憩時にお弁当を食べに行くときに休憩室が暗かったからスイッチの場所分かってないのではないかと聞いたら、大丈夫です、気遣ってくれてありがとうございますという言葉が柔らかく返ってきた。その言葉を聞いて邪魔して申し訳ねぇとなった。

 

言葉が自分を守るために遣われている。

たしかに言質という単語もあるし、そういう世界観も分かるが、僕は自己の存在を確立したり保護したりするために言葉を用いていないなぁって。

 

とはいえ、譲り過ぎも慮りに対する甘えられも止めようしている。というかできてきた。一昔前は、お花を摘みに行くタイミングも調整していて我慢することがあった。今でも調整はしているが、特には我慢していない。INFPってこんなことまで気にしていないかという気がするが、この性質がそうなのかは知らない。場の調和を慮る性質。

 

あと、我ながら面白いのが、昼休憩時、駅から公園に繋がるビルの通路の自動ドアを通るとき、1人ずつ行き交うのが限界の幅のところをカップルが2人で並んで向かってきて、あからさまに嫌な顔をした俯瞰があったこと。女性の方に聡く観られたと思う。これが、カップルへの嫉妬か、まずいことしたなと解釈されるのかは知らないが、僕はこういう振る舞いをする人は苦手で良い。世界に自分達しか居ないみたいなやつ。嫌な顔ができて上出来。来たら避けるみたいな挙動ができない幅だし。

 

新人さんの言葉が苦手なのはきっと世界観が似ているから。

先生の言葉は自分の世界観とは別の世界観があるという事情が加味されている。

 

その先の公園のベンチでお弁当を食べる。子連れの夫婦が座って居て、膝にはぐでーんと寝ている男の子。微笑ましい。こういうのは見ていて問題ない。良いこっちゃ。

 

午後の部の仕事は、恙なく。

寝落ちしそうになったが、ちゃんとこなした。

 

そうして遊び惚ける。

パートナーさんと仕事終わりの時間が一緒だったから、空間を隔てた運試しデート。斬新で楽し過ぎる。そうして、これを一緒に楽しんでくれる精神性がちょうど良過ぎる。

 

なんだかんだ楽しんでいると勝ってしまう。

当てようと意志すると駄目。僕はまだそこまで意志の現実化の領域に至ってない。

 

エヴァンゲリオンが人気なのは分かる。だって原作を知っている人にはきっと楽しいに違いない。パイロット選択でパートナーさんは渚カヲル君一択だろうなと思いつつ、綾波レイちゃんを選択。ただのフェチ。

 

細かいところはどうでも良いとして、運試し場って子供のような挙動をするオトナが多いよなーって思う。ボタンとかそうとうな強度で作っているのだろうな。バンバン叩く人が盛りだくさん。たしかにゲームとして楽しいのは分かるけれども。

 

最終的に僕は勝ってとんとんみたいなった。

運の向きが悪くなっているのに一緒に遊んでくれたのだから当然一緒に過ごすことに回す。

 

そうして帰り。買ったとしても普通にスーパーのお惣菜。あれ、ビール買っても2000円ちょいって安くないか。金銭感覚がずれるが、それによって無駄遣いすることはない。良いご飯を食べる為には相手が必要。金銭は大したものだが大したものでもないという両義性を習得するために遊んでいるという節。あと、からくりサーカスのアニメ画を見るためなのか。原作はきちんと電子版で購入して読み進めている。

 

からくりサーカスの世界観って、舞台なのだが、舞台の外にもきちんと人が居るというのが良い。勇者とかヒーローが主観の舞台ではなく、観客が居るからこそ主人公がある。サーカスの芸人は観客が居ないと存在しえない。

 

あぶく銭で全巻買ってパートナーさんに布教しよう。笑

絵柄の癖が生理的に受け付けないのであればどうしようもないが、それはそれで良き。

 

遊び惚けていたものだから、お風呂読書の時間がカットになった。

別に義務で読んでいる訳でもないし、多少離れたとしても問題はない。むしろ少し離れてもまた読みたいというのがほんとうの読書欲。

 

そういえば、昼休憩のときに小説を買った。運試し場で読む用。

西尾維新さんの戯言シリーズから派生した最強シリーズの最終巻。アニメ化できないような話だからおそらく認知されていないが、僕は戯言シリーズが一番好き。省略。

 

そろそろおしまい、の前に。

 

僕は一般的に言われる読書の効用についてはさっぱり分からない。

何かを目的として読んでいるということは皆無だし、読解力とか想像力はなんというか本を読む前の精神性な気がする。どれだけ本を読んでいる人でも具体的な他人の事情を慮れないとか。僕の中では本は世界であって、本を読むことで世界が狭くなることなんてあり得ないのだが、自分の世界の為だけに本を読む層も居るのは分かる。

 

そうじゃなくて、僕の世界観。

本を読むことは時間もエネルギーもかかることだが、その言葉には時間の含蓄がある訳で、これを食べることによって、時間で捉えたときの自己が重層化する訳で、精神軸の時間だと可逆的になるのでは。僕の例しか無いから僕がおかしいだけという説があるが、誰かが費やした文章を食べるって、消費の後に創った人のことを想うのが普通なような。

 

今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

 

物語は言葉の前にある

 

 

地獄甲子園の絵柄のような夢。打者が1塁ベースではなくピッチャープレートに向かう。

 

昔読んでいた時期の今はなき月刊少年ジャンプにちょうど載っていた。小学生時だったような。うちの親が漫画にはオープンだったから、エログロも問題なかったらしい。僕の土壌はこの週刊誌にもあるのか。あんまり覚えてはいないのだが、ぎりぎりプリン(ちょっとエロい)と鬼神童子ゼンキだったかな、は結構読んでいたような。

 

鬼神童子は前鬼と後鬼が居て、炎と氷で、主人公が役小角の末裔で、ということは覚えている。悪役でブラックが出てきたような。あの話どこに行きついたのだろう。どこに行きついたか知らないといえば、バスタードはどうなったのか。ちはやふるは完結したのだっけ。

 

と、いう感じで、漫画の終わりを全然気にしていない模様。

自分が目にする物語がすっきり起承転結になるとは限らないし、そのとき面白ければ良さげ。

 

週刊少年ジャンプも読んでいた。テニスの王子様の初期とかシャーマンキングとかるろうに剣心からの武装錬金の辺り。リーダー伝たけしもあったか。ガッツ島編が好き。たしかにきちんと少年漫画をしている漫画も楽しんでいたが、僕が当時最も好きだったのは、封神演義だった。藤崎竜さんは短編集も買ったが、すっきりしているというより、不可解さが残る話ばかり。この前散歩中に読み返したのだが、夢と現実のパラレルワールドで、現実界は殺伐としていて、カニバリズムもあるという感じ。たしか超能力者の話が良かったような記憶があるが、まだ辿り着いていない。

 

からくりサーカスも別にそんなにスッキリ終わらない。最後に登場人物が総登場して皆笑っているシーンは痺れるけども、結構皆しんどい人生。それでも笑えるのが良い。

 

 

よくわからない物語と言えば、小説界では村上さんの作品がある。だいたいが知り切れとんぼみたいな終わり方ですっきりしない。ノルウェイの森も緑に電話をかけるシーンで終わる。あなた、いまどこに居るの?

 

スプートニクの恋人もそんな感じだったような。

何か発端があれば出てくるはずだが、今は全然出てこない。

 

 

言葉を綴ることが物語を構築することだという河合さんと小川さんの対談本の記事を読んだ。人は耐えきれない感情をストーリー化している、みたいな。

 

たしかに分かる。物語としてしか語れない感じの中で生きるしかない。

ただ、僕のは物語化している訳ではなく、物語が先にあってそれを言葉で描写しているだけだなと気付いた最近。言葉によって楔が打たれることもない。脚色もしてないし。

 

 

今日は物語の話か。

 

ちょっと戻って来て、現実的日記的日記。

 

仕事は特に恙なく終わる。人の手抜きが見えるのはイライラしているのではなくきっと仕様でしかない。古参の先輩こそ手を抜いていない。意識は時々抜けているが、ほんとに抜けているだけ。

 

空いた時間にレシピとか食材の知識を仕入れつつ、うとうと。

ほんとに活動的な職場にするなら、このご時世では歓談はできないとしても、チャットみたいな場を作って、本日はこういう知識を仕入れましたぜうへへ、ここの情報が更新されてますぜくへへ、みたいな知識のアップデートを共有するようにした方が良いのだろうが、皆自分の場所を確保することで手いっぱいにならなきゃいけないと思い込んでいるのだろうな。

 

先生とか上司だって更新が一元化されていない以上、情報の最新版が常にやってくるチップが頭に入ってくる訳でもないし、仕事に使える知識は常に共有できるようにした方が、皆楽になる気がする。

 

攻殻機動隊の世界観みたいだが、人の意識的な脳は情報の洪水に耐えられるのだろうかと思いつつ、テレビがまさに情報の洪水であって、自分に残すべきところだけ拾うのだから、問題はなさげ。世界は常に当人の世界観に集約される。

 

 

そうしてノー残業で退勤。まだ2日も残っているから弁当が捗る。デリッシュキッチンのレシピを再現。鶏胸肉のネギダレみたいなやつ。料理酒がなかったからビールで代用した。うまい。これはまた再現できるから、パートナーさんが所望するなら振る舞える。

 

 

物語ってそもそも何かというと、分からないことを分かるように切り分けるという意義なのかな。納得という世界観。

 

そういえば、本日、社会のデザインをふと考えた。

安全、安心、快適を構築するための設計思想。

 

例えば、法律(刑法)は人の固体を守るためにデザインされている。物理的な肉体とか、所有権とか、名誉のような固体化されている人格とか。この意味で人は独立して尊重すべきだから、許可なく越境すると犯罪になりますよって。ただ、安全は人が自由に動く限り、100パーセント保つことはできない。

 

安心は、もう少し引き延ばされた人格で、保険とか年金とかの未来にもなるし、過去の自分と今が切り離されているとかもある。永劫安心も社会的にはありえない。むしろ不安を煽って安心の為に何かしら課金されるみたいな感じがあるのだが、これはきっと僕が社会不適合者だから。

 

快適はもっとややこしい。ほとんど主観の独立的なもの。芸術にも拡がるし。

心地良いとかちょうど良いとか、美しいって、物語化できるものでもないし、哲学が美を追求している意味も分かってきた。

 

効用があるという意味の快適だと、人間工学の範疇になりそう。

不快がないというのがきっと居心地が良い場だろうし、ただ、不快によって場を気持ちよくするという建築学的な思想もあって、なかなか面白い。

 

彼岸花が好きな僕は彼岸花を見ることによって快適になっているかと言われると、全然そんなこともないし、愛でられる自分が好きだということでもない。ただ良いなって感じているだけで、それを共有してくれる誰かを欲しいという欲求はない。カントさんとかは美は誰かにも共有されるべきという感覚だとしているみたいだけども。

 

対岸のイメージだから、こっち側の花とはなんぞやという言葉遊びをしてみる。此岸花というネーミングはどうだろう。

 

言葉と実体が一致しているということから切り離しがある。

自分に正直に言葉を語っている人でも、結局は自分の中にある語彙しか選べないし、それが当人と一致しているかって誰にも証明できないし。

 

日本語は色合いがグラデーションだからややこしい。

 

次の日本語が定着したら、「好き」の多元性も古語でいう「おかし」とか「かなし」みたいな語句説明が出て来そう。

 

もう待ち合わせに遅れているが、もう少し。

 

レンアイ的な「好き」は乾きだが、安心的な「好き」はうるおい。

乾きに依存するつもりもないし、ここはもう良い。一生好きだという意味合いは、一生乾いているということでもなく、ただ、世界線が離れても幸せで居てくれたらええなぁという余剰。緑が読めなくなった物語の外で幸せになったらええのになというくらいの重さ。

 

パートナーさんという呼称はきっと最後の人だし、もっと自信を持ったら良いのにという次第。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

障り

 

 

高尚も低俗も一様。

 

 

二度寝しながら遅い朝に洗濯物を回し、10分早めに起き上がる。起き抜けの眠さって、実は気を遣って二度寝しなくても大丈夫なのか。仕事中にスリープモードに入りそうになることはあるが、仕事があるのに動けないということはないから、省エネしている。来週試してみるか。アラームより早く起きてPDFとかkindleを消化するとか、先に洗濯するとか。

 

そうして、早起きをしたことによってかどうなのか、ふと、あれ、昨日の案件のアレミスったなということに気付く。クレームになるかはともかく、誰か他の人が続きを取ったら面倒になりそうだ、鬱だ。

 

やはり、近い懸念はとても重いのだなと、しみじみしながら出発。ここまでくると、なるようにしかならないし、ほんとにミスだったら拡大しないように予防線を張ろうって。ついでに地域密着型の居酒屋さんでお借りした傘を返す。

 

仕事場に行って検証してみたらミスしたと思っていた要因とは別のシステム上の動きからリカバリーされていた。ミスの要因は別の細部が気になっていたからで別に気を抜いたとか手を抜いたことではないから、特に反省はない。全部の知識を先に持っていることはできないようにできているし、完璧主義でもない。

 

昔はもっと強迫神経症的だったのだが、随分と緩くなってしまった。

 

例えば、他人の中にある自分像への評価とか、何かしら非言語領域で感得されることにあまりに重きを置いていたが、単なるイメージ像でしかなかったとか。まぁ、イメージの中で生きるというのも、大事なことなのかもしれない(思っていない)。

 

イメージ外の自分で居る必要ってある程度年を経て自他にイメージが確立されたら脱ぐのがきっと億劫になるのだろう。僕はそこに活路というか、楽しさを獲得している。割ときちんとしているように見受けられるが、中身は乱雑。ただ、締めるとこは締めたい感じ。

 

出かける間際にちゃんとたこ足配線のスイッチ切ったかは一回家を出てからでも確信が無ければ戻って確認するという名残はある。悲観的な世界観も、こういう近くて重い懸念だけを注視しているから起こる。空間ないし時間で近いことって危険だから脳が反応しているという、ある意味正常な作用だと思われる。

 

 

世界観については、現実的な意味合いでの危機感はどうでも良くなっている節。自分の意識が世界から退場するのが最大の懸念事項であるはずで、これってどれだけ注視したって天災がありうるし、なるべくどうにかすることしかできない。ここに比べれば、社会的な云々は取るに足らないような。

 

もちろん、人間の醍醐味は、自然な重み以外で軽重を選択できるというところにある。何日も動かない甲虫を見かけたとき、甲虫はどうやって時間を過ごしているのかって一瞬想うが甲虫には時間の概念がないから、いつまで留まってもそれが自然なのだよな。

 

 

仕事の話。

 

案件を文章で記録するアーカイブがあるのだが、なんだかすごく無駄な記述が多いように見える。いや、何が重要か分からないからなるべく書くというのはありだが、感想とか自分がこうしたという前置きみたいな主観を報告文書に入れるのは、読み手のことを考えていない。論文なら楽しいけども。

 

こういう感じで報告文書にも文体があるから、ワンフレーズでも癖で誰が書いたかはだいたいわかる。まず再現というか、読み返して追えるように記述すべきよなぁって。馴れてくると癖が付いてきて、手抜きが起こる。いや、僕は別に上司ではなくて空き時間で食べている趣味みたいなものだから感想以外何もない。

 

個人的には、まだまだ洗練可能性があって良い領域。

 

最古参の先輩から、先生上司は僕の事を信用しているという話があったが、あんまり分からない部分。印象では、先生は僕をこの職場に留めたいと思っていないという感じもなきにしもあらず。居るうちはという感じ。

 

仕事が終わって合流し、傘を返した居酒屋さんにまた行く。美味しいし、コンプリートできないくらいメニューが豊富。店員さんの空気感なのか、男性サラリーマンが多い。賑やかしい。エビスビールの生中が380円って、分かる人には分かるやばさ。

 

いっぱい食べて、人の多さに気分が悪くなったと言う。顔色も悪いからちょっと休もうかとなり、何故か運試し場へ。エヴァをやっているというから隣りに座るかと思ったらあまり面白そうな台ではなかったから、ちょっと離れたルパン三世へ。銭形警部がハッスルして、なんだかんだ、ご飯代を払う前よりも増えた。

 

あんまりこの話はアレだが、僕は人生劇場にある意味ギャンブル性を見ているし、社会的によしわろしはどうでも良い。あくまで合法の領域。

 

大事なものは何なのかの軸がブレなければ。

 

個人的には、誰かを下げない楽しさというイメージ。

自分を保つために下げなきゃいけない他人が要るのは、江戸時代の水準とあんまり変わっていない。そんなことより自分を楽しめるようになれる素地はできてそうだけど、比較の概念から逃れられないのも分かる。

 

 

ショーペンハウエルさんが、「意志が知性を侵食して注射する」みたいなことを書いている。この人の概念での知性は判断能力ではなくて認識だから、この言説はとてもよく分かる。何かを認識するときに、自分の意志(意識)というバイアスがかかることで、物事をありのままに認識できなくなる。ショーさんも完璧な認識があるとは書いてないし、皆ブレンディなのだが、この発想が現象学に至る入口の一部だったのかなと。

 

個人的に僕は意志で生きていないし、認識は無意識領域で、運動になるが判断はしないという感じ。こういう言葉って概念上一意で固まっている訳でないから勝手に解釈していい。

 

自分であるという定義を、意志している自己と置くのが現代の定説だが、僕は、認識とか運動に置いておきたいし、そういう視界から人を見ている。意志している自己における他人って単なる人生劇場の登場人物だが、認識できないと他人は存在として現われないし。

 

この辺りはもっと練らねばならぬ。

 

はい、何か良い感じのBGMが聞こえてきているのでおしまい。

 

おやすみなさい、

 

良い夢を。

 

最後で良いかな

 

 

こう、考えたことは言語化するより自分の中に留めておいた方が広いとすると、どうして言語化しているのかとふとした疑問が起こる。

 

あと19回。自分が決めたことなのだから覆すのも自由だけど。主に前倒し方面で。ここで終わりでも良い。

 

いや、とても楽しいのは確か。ここまで中身を言語化できたことは今までなかったように思う。よくもまぁ僕を読んでくれた。これだけ純度が高い好意もなかった。しかし、表明する意味はない。

 

言語というか、言葉。

 

毎日毎日万文字単位で本を読んでいるから、一般的な言葉論からは乖離しているのかもしれないけど、言えなかった言葉ってほんとうにあるのかとバグっている。

 

僕の中では凄く実感として腑に落ちるのだけど、説明しようとするとかなり難しい。何故かというと、言葉は自分の内側にもともとあるものだという観念がスタンダードだから。この観念からすれば、こう表現すればよかったというのも分かるし、僕もそういう風に捉えていた。

 

けど、本当にそうなのかな。考え方の話だけど、表面で言えば、言えないということは、その場にはその言葉は無いのではというのがまず1つ。この文脈では、言葉というよりそういう自分を表したかったということであって、言葉自体に意味はない。言葉で自分が表現されるという水準。ここで遣う言葉はそういう方向性を持っている言葉であればなんでも良かったはず。

 

この辺りで、たぶんついて来られなくなる。言葉って自己表現じゃないか。その意味ではここまでで終わるしその通りだよねって。どれだれ言葉のストックがあっても目的がこれだったら、人と話す意味はない。厳密には、人と話しているときに遣う言葉に意味はない。ここで意味があるのはどの言葉を発したかではなく、どう言葉を発したかという態様のこと。否定的な意味を持つ単語でも問題ない。

 

こういう、私的な言葉の外には公的な言葉もある。仕事で通話していて思うのだけど、ここにも特に言葉固有の意味はない。あるのは作法。僕は個人的にどうでも良い人との通話はしんどいのだけど、仕事でやっていると、どうでも良い人がすっきり疑問が解消してくれたのは嬉しいなって思う。

 

ここは僕にとっての嬉しいが、僕とは無関係ということになるのだけど、まぁあとで。

 

では、ほんとの言葉の扱いレベルでの、自分の思考とか精神世界の叙述という意味の言葉ではどうか。これも内側でやってますよ、日記とかSNSでは言語化できますっていう観念も良いけど、いろんな人を観測している限り、んなことはないだろうなって思う。

 

Twitterとかで諸々観測しているけど、自分の精神の言語化ではなくて、自分をどう宣伝したいのかの言葉。もともとその人の中にあった言葉のようには見えない。何に時間消費しているのだっていう人がやたらと多い。読むのも無駄だよなって。波さんの以外。

 

僕の話。

 

自分の言葉がもともとあったものだとは全然観測できない。むしろ、時系列の諸々の場によって自分でこんなことまで言語化できるのかとびっくりする感じ。もともと自己表現の為の道具としてないし、通話仕事では、こんなので良いのかって思うところもある。要は、発話で遣えるような道具としての言葉を増やせばいい。あとは安心を与える。これがもともと中身にあったのかというと別に単語で考えていないしなぁって。

 

正味、人が語彙と自己感の関係をどう扱っているのかは全然分からない。たぶん普通の大人は言葉と当人に距離を置いているはず。いや、過剰に投影することもあるかもしれない。知らん。

 

僕が自分と対話している人が言葉に詰まるフェチなのは、その人が俗世で使っている言葉で通用しないところで対話できているからだろうなって思う。あぁ、対僕専用の言葉の為に考えてくれているわって。この空白がとても好き。あんまり在りえない空間だからあんまりやらない。恋人さんにはしたことないな。

 

だから、ねっとり媚びるような声色遣う人駄目なのだろうな。自分の為に他人を扱っている。

 

 

僕は場においてしか言語化できない。ほんとの中身は非言語にあるから。そうして、この場は波さんが読んでいるだろうなという可能性的言語化の場でしかない。

 

言語化の上限はもっと先があるのだけど、好きになってしまったものはしょうがない。

 

 

という視点で観測したとき、僕は僕のことを固有で観測しているかどうかで見ている気がする。僕が固有に観測しているかとはとは全く無関係。ここにえこひいきはない。

 

自分の世界の中で流れゆくものだったらこの言葉はないなって。スプホリさんもきっとそう。僕が観測圏内から消えても、あぁこんな人が居たなって思うだけ。

 

だとしても、波さんに関しては全然整合性がない。僕に投げてくれた言葉も現実で観測した印象も、外に表明している像とは全然違う。この齟齬はなんだろうとは思うけど、ノイズでしかないだろうから、僕としては好きにならせてくれてありがとうございましたで終わって良い。

 

関係の需要供給とか、嬉しさに対する返礼の儀礼ではなくとてもリアルだった。でも、このリアルさは、きっと不要なものだろうから、僕はそろそろ退散します。

 

波さんの存在がなければ、ここの日記はなかったのは確実。

 

では、と機嫌と元気が両立しますように。

 

おやすみなさい。

 

 

 

こうさつ

 

 

なかなかスリリングでスプラッターな夢を見た。誰かが運転するバスに乗っていたのだけど、そのバスにはなぜかハンドルが2つあって、どうして運転できると思ったのだとなり、そうそうに岩場の上にバスが停まる。岩場といってもごつごつしているのではスカスカしていた。岩場の下には海と砂浜。

 

どうしてか海に入ることになり、いつの間にか水中で何処かのビルにいた。これ息続くのかと冷静に考えつつ上り、やっと水から抜けたのが8階。そこから見るとバスが停まっていたところも海に浸かっていて、どういう思考回路なのか賠償問題が困ると思っている。この感じは起きた後も残っていた。

 

そうして、そこからスプラッター。賠償問題がこじれたところで丸形のチェーンソーで人が切られるのを目の前で見て、その後自分にも包丁が向かってきたからそれを掴んでいた。まったく感触がなかった。

 

感触の記録って、結局のところ硬度と温度と痛覚しかないから、夢にはあんまりそぐわないなのだろうな。感触に意味があるのは、その対象に意味があるから。もしくは最初の感触。感触の情報量は多すぎるから、いちいち脳も処理していないような気がする。

 

 

夢から覚めて思ったのは、夢には今ではないものしか出てこないのだろうなということ。二度寝とかうつらうつらしているときに見る夢は除く。心象イメージだと、ある広大な空間の上空に下に小さな穴があいている透明の洗面器くらいの器がある。そこには水が溜まっていて、穴から落ちていく水と同量の水がちょろちょろと落ちてきている。落ち行く先には、海くらい大きな水たまり。これが僕の「いま」といままでの無意識の感じ。今捉えられるのは洗面器くらいのものでしかないなって。そして、夢は海のような無意識からやってくる。条件は情報量が多いということでないような気がする。

 

さておき。

 

新刊枠候補の○○は余生だった。「余生と厭世」語呂が良い。綿矢さんのはなんとかのリボン。結局どちらも買わず、伊坂さんを買った。白兎。でも、どうも合っていないような気がした。無理に新刊枠で最近の小説読む必要もないのかなという疑義。いや、伊坂さんの本自体は面白いとは思うし、好きなんだけど、タイミングの話。最近の感覚に合わせる意味がない。

 

最近の話題で言うと、ニュースではアレの感染情報が最大のトピックだと思う。ただ、それを追って何になるのか、いや、意味ないだろうという感じ。確かに僕も国家試験がさらに延期されるのでは、日程被るのではくらいは気になるけど、気にしたところでコントロールできる事象ではないから、ある意味どうでも良い。

 

気にするならもっと壮大に気にするべきで、コレが死因でない死者がやたらと増えたとか、気管支疾患よりもエイズに近いとか。全世界では一日に15万人が亡くなっている計算になるらしいし、ロックアウトした国とか州の方が死亡数多かったとか。素朴な僕は、なんでそこだけ気にするかは、単にトピックに上がっているだけだと感じる。個人的には免疫ダメージは脳の稼働率に直結するからなるべく避けなきゃなと思うけど。

 

まぁ、自分にとっての「いま」しか認識できないところも分かる。いま手に取れるものはあまりにも少ない。

 

ともあれ。

 

日記が更新されるとやはり嬉しい。おー生きているわって。変則的に生きているのに日単位で更新できるのはとても凄いし好ましい。そういうことができる人格とは観測していなかった。もっと書きたいときに書くだけだったような。僕はたかだか2年くらいしか観測していないけど、変化とか進歩はちゃんとしているのではと言ってみたい。とか言って、結構言っている気もする。

 

僕が観測されているのかについてはよく分からないところがある。最近アクセス数を見るようにしているのだけど、これはほんとに1人なのかという感じ。匿名的だから、波さんが毎日読みに来ているとは限らないのだけど、1とか2とかだったり一気に5だったりする。2が玄人なような気もする。当日しれっと前日の日記の誤字脱字とか表現をちょっと直すから。

 

特に何の思い入れなく定点観測することってなかなか難しいように思う。いつでも更新されているから、気が向けばっていうアクセス数だと腑に落ちるし、たぶんそういう風に読んでいるだろうなとは思っているのだけど、何かノイズがある模様。

 

まぁ、すべては勝手な思い込みで夢のようなことでしたで良いから、ある意味なんでも良い。僕も人には期待していない。もうすぐこの楽しい世界も終わり。

 

ところで。

 

素朴な感覚として、縁の刹那性についてはいくつか書いているはずだけど、アインシュタインさんと繋がっていたらしい。時空は四次元軸で、物体が制止しているとき、その物体は時間軸を光速で移動しているとか。説明できるほど理解しているとは言い切れないけど、要は移動の絶対値は光速で、それが配分されているらしい。三次元空間を光速で移動する物体に時間の経過はない。

 

相対性理論で言えば、自分は静止した視座があって、相手が移動しているということになるけど、それを観測する視座から見れば逆転する。

 

ここからすると、時間の経過で変わらないものってむしろ光速で移動しているということになる。精神に適用されるのかというととても難しいけど、同じようにして良いような気もする。

 

僕は、意志で人をとどめているしとどめようとしないならばもう縁はないだろうなっていう観念で生きている。

 

ここで意味があるのは言葉だけ。もっと声を聴きたかったなというところで終わっても何にもない。だって、この光速世界でたまたま嬉しく出会ったのだから。なんだか星の王子様みたいな世界観だけど、人と人の距離って星間距離くらいはあるように思う。

 

まだ残り回数は何回かあるから、続きは明日。

 

褒められているに違いから読むという軸もあるのか。

 

まぁいいや。

 

あぁ、好きです。あわよくば健康でありますように。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

しょうこ

 

 

20時前でも随分と空は明るくなった。月は雲にかくれんぼしていたけど、家に着く直前に6.5分目で浮かんでいるのを見つけた。そう言えば、出勤中に色彩に注目していたら、ふと色鬼を思い出した。あれってどんな遊びだったっけ。色を宣言してそこに触れている間は捕まらないだったら、その解除条件ってなんだってなると、色を宣言するのは鬼だったか。しかし、色が認識できない人はいじめられそうだ。あと、影鬼も思い出した。あれは確か1つの陰に10秒しか留まれないみたいなルールがあったような。あぁいった遊びって今の子供たちはしているのだろうか。あまり注視していないけど、公園で走り回っている子供達はとても無秩序に見える。だるまさんが転んだとかもしないのだろうなぁ。

 

はないちもんめとか今や人の平等性を阻害するから禁止令がでそう。あの子が欲しいーって。何を目的とした遊びだったのかも定かではないけど。まぁ総括すれば、世の中にはルールがあるということを染み込ませるものだったのかも。知らんけど。

 

そういえば、いくつか前のなんとかキクの看板をもう一度見て焼き付けた。シロタエギク。全体的に人工物みたいな植物。葉っぱはやたらと白い。あの看板って結構どこでも見かけるけど、行政で統一されているのかな。京都の植物園とか何処かの高山でも見かけた気がする。

 

新刊枠をまた読み終えてしまい、次の本を探さないといけない。有力枠は、○○と厭世という暗そうな雰囲気のハードカバー。○○のところは忘れた。たぶん諦観だったかなというくらい。精神科医の人が書いているとかなんとか。あと、綿矢りささんの本がちょくちょく目に止まるからこちらも気になる。蹴りたい背中が面白かったかというと微妙なところなのだけど。蛇にピアスの方が良かったかも。

 

 

新刊枠の話。リアルとバーチャルの話がとても面白かった。もうVRの技術もむちゃくちゃ発達した世界だから、頭の中を仮想世界に移動することもできる世界観の中で、自分の肉体を固持しないといけないのは何故だろうと主人公が考察しているのが思考とリンクする。自分の肉体の重みの安定感を絶対座標としているとのこと。賛成。

 

僕がこういうどうでも良い肉体から離れたことを思索できるのは、肉体的リアルの強固さが揺らがないから。精神に肉体が流れない。

 

あと、自分がどうしてそう感じるかが分からないとも言っていた。これもよく分かる。ここは考察ではなく観測がそぐう手段。理由なぞ不要。

意味というのは価値があるというフレーズもあり、なかなかちょうどよい本だった。ここでいう価値というのは、経済学でいう希少性に近そう。

 

さておき。

 

あまり分ける意味もないのだけど、現実世界の話。繁忙期は楽しい。余裕がないときほど人の本質が見えるなぁって。ちょっとしたトラブルに対応したときに、「主婦ですからそんなに待てない」ってフレーズが出てきて、いや、あなたが主婦であることと仕事にどんな関係があるのですかって思った。いや、心情としては分かるし、待っている家族はかわいそうだけど、情と仕事は関係ないし。割と防壁が建設されてきている。うまくあしらえたはず。

 

もう少し話は抽象的になって、証拠とフレーズが複数人から出てきたところから証拠について考えた。

 

証拠って聞いたとき、どういった定義が想起されるだろう。人それぞれは個人個人の定義だろうなと思う。そうして、定義には効果というか振動というか外に影響がある。ここでいう証拠は、それを前提として判断できるような事実ということだった。

 

もう少し潜って。法律学の世界だと、証拠って、証拠の外にある物事を推論するための道具みたいな意味がある。凶器のナイフがあります、指紋がついています、であれば、指紋の持ち主が凶器を使ったんだみたいな。民事でも、証拠は独立した存在ではなくて、何を証明したいのかとセットのもの。であるならば、さっきの証拠も、相手がこう言っている。であるならば、相手が言おうとしていることを証明できる外的な証拠物があるはずだという意味になる。

 

まぁ厳密にリアルを考えればこうなるのは分かるけど、素朴な世界において証拠物なんてそんなに必要とされていない。なくてもなんとなく不具合なく過ごせるし。

 

じゃあ何でもって人は生活しているのだろうと思うと、証拠より印象の方が強い。自分の言動も印象で捉えているし、相手の言動だって印象から外れるようなことは見えない。

 

さんざん前置きしたけど、この思索での結論というか最初に思い付いた命題は、気持ちの証拠は言葉ではないということ。言葉は順番で印象が変わる。

 

好印象な言葉なんて言おうとすればいくらでも言えるのがまず1つ。自分をよく繕うために使おうとすればいくらでも利用できるのが言葉。次に、エネルギー消費の面で見ても、マラソンするわけではなく声帯を震わせればいいだけだから、かなり省エネ。

 

にも拘わらず、言葉に意味を置けるならば、自分の言葉にかなり重みをおいているのだろうと観測されるけど、それはエゴではないかと思う。言葉の扱いなんて人それぞれだし、自分が遣っているように相手も遣うなんてとても傲慢な考え方。自戒。

 

だとすれば、相手から表明された言葉を介した気持ちは何で証明されるのか。これは継続で見るしかない。厳密には持続だけど。

 

意味分かるかな。僕もあまり分かっていないけど、そういうものだろうなという感じ。

 

書くべきか一瞬迷ったけど、書くか。

 

嬉しいって言ってくれた言葉の意味は、たぶん観測が続いていることで証明されている。忙しい合間にほんとに読みに来てくれているのかというはなかなか疑わしいところだけど、これは一般論が阻害している。

 

僕としても、この期間はとても楽しかったです。その証明は日記参照。

 

逆算で、僕は言葉が自分の証明になるとも思っていない。本心でしか書いていないけど、本心だからといって、すべて現実なのかというとそうではない。現実は現実で、言葉の外に在るもの。まぁ、この世界において現実なんてあまり意味を持たないけども。

 

 

もうちょっと前に気づけばよかったけど、いつも遅いのがデフォルトだからしょうがない。いつになったら追いつけるのかも分からない。

 

まぁ、新刊楽しみにしています。

 

では、幸せでありますように。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

たがため

 

 

 

強めの雨の中を歩いているといつも思う。自分は傘の差し方とか雨の中での歩き方がとても下手なのではなかろうかと。裾とかびしょびしょ。こういう時にふわふわしている服を着られる人はすげぇ。でも、見ていなかっただけで(見ようとしていなかっただけで)、みんなびしょびしょに違いない。傘の形状と面積からして足元が濡れないはずがないし。傘というのは一番大事な頭部が濡れないようにするだけ。足元を守るなら長靴だ。長靴は好きだったけど、今や持ってもいない。

 

激しい雨って何かそそるものがあるのかな。自分に被害がないところから眺めている人を何人か見かけた。被害があるところでおーって言っていた人は、なぜか上司と相合傘をしていたけど。男性同士。肩の濡れ方で立場が分かる。コンビニの目の前の灰皿だったから傘買ったら良いのにと思ったけど、傘にはお金は使えないのかもしれない。傘も買えないという意味ではなく。

 

しかしながら昨日の日記の誤字脱字もすげぇ。直したけどやはり書くときはコーヒーとかの飲み物だけにした方が良さげ。こういう不便さは自分で実感しないと改善しない。

 

今日も色々考えた。

 

僕はほんとに自分のことを考えているのかと考えると、厳密には自分が何をどう知覚しているか、感じているかということを思考対象としているだけで、自分自身がどうであるかは対象になっていないような。後者の方はどれだけ考えてもどこにも届かないけど、前者の方は自分が外界に対するときの精度にかかわりがある。

 

そこで、自分が進歩ないし変化しているのかをどう考えるか。まず何をもってそう定義するのかが問題になるのだけど、純粋に主観的に見たら、何も変化していないということになる。だって、自己感って過去の集大成の「今」だから、常に集大成について変化があるかを問うことだもの。この観測軸だと変化は捉えられない。

 

で、過去の自分と比較してというような相対的視点で見たらややましだけど、ここでいう進歩はそもそもなんだろう。自分ができないと思っていたことができるようになったとか、結果を出しただろうか。だとすれば、ここで問うべきは、本当に過去の自分はそれを変えようとしたのかという部分。変えられないと諦めていた過去が今になって突然変わる訳がない。よほどの環境の変化があればあるいは起こるかもしれないけど。

 

結局は今、何を変えようとするという起点が変化とか進歩なのでは。というのもいまはいずれ過去になるから、過去を顧みるエネルギーも未来のために使うべき。

 

個人的なところでいうと、僕はおおむね自分がほんとうに決めたことはとくに抵抗なくするようになった。別にご飯に価値を置いている訳でもないのに弁当を毎日作るし。これには、外堀(買いに行ったときの行列とか濃い味のご飯を毎日食べるのが嫌だとか、天秤の反対側を軽くすること)を埋めたりして調整が必要だったけど。タバコはたくさん吸うしお酒も毎日飲んでいるから自己統制に説得力はないけど、何を統制するかはまぁまぁ決められるようになってきている。

 

毎日書くのもなんとなく試みみたいな意味でしかないけどやっているし、毎日本も読んでいるし、自分の体はまぁまぁ都合がよく動かせるようになってきている。

 

まぁ、飲み過ぎて余計なことを投げてしまうことはやめれば良いのにとは思っているけど、ほんとうにやめようとは思っていないというか、投げたい人にしか投げてない。善い意味ではなく、早く嫌われれば良いのにという投げ槍的な感情があるから。こういう意味の本音はあんまり言うべきではなかろうな。一般論としては。まだ言い足りない。

 

自分の体が動く感覚というのは、とても意志的。これをしたら自分にご褒美があるとか、これをしなきゃ悪いことになるっていう義務感とか、しょうがないからするという諦観とは全然違う。ただこれをする、こうなるって決めたらそうするだけ。このやり方が合うのは、報酬がドーピングにならなくて、義務を設定しないと行動できないなんてことがない人だけかと思われる。需要と供給の対価関係で世界のだいたいはできているから、特に独立した自分を設定する必要はない。

 

あと、もちろんだけど、自分から出てくる感情は禁圧してはいけない。感情と現実が一致することが報酬なんてことも思わない。それはたまたまというか奇跡のようなもの。その為に動くのは無謀過ぎる。

 

 

ところで、SF小説の話で、人格をコンピュータがトレースして人工的に当人を精製するという話があった。ここで、どんな情報を学習させたら自分と同じ人格が精製されるのかって考えたのだけど、どう思う?

 

 

 

まるっきりな人格、外に出てこない思考まで一致することは不可能だろうけど、どういう風に話すか、人と接するかみたいなリアルな人格ならできそうな気がすると考えた。リアルな部分ってかなりパターン化できる。気分によって変わるアルゴリズムも何十年分かの情報量があればきっと学習できる。

 

確かにこれは、ある意味その人の現実的人格のコピーで、たぶんこれが人の最大公約数的なリアルの定義。僕のリアルのコピーなんてすぐ作れそう。凄いですね、へぇーみたいなパターン的な発話だし。

 

でも、人って他人のこういうところしか見ていない、自分にとってどう観測されるか。自戒だけど、僕も自分とどれだけ近い人に対しても、自分に対する言動でしか相手を見られなかったし。何がほんとうかで言ったら、思考の描写である日記よりは現実的反応の方が重い。

 

SNS的人格の方が重いとしているのは、リアルでの人の言動ってパターン化されているという前提があるから。リアルで言わない言えないようなことをのたまっている人格とはちょっと違う。

 

そういえば、元々恋人さんが浮気している当時、日記を見つけて、ある意味では美味しかった。かなり抽象的に書かれていたけど。タイトルは「砂の上のお城」。痛くて美味しいってすなわち辛いか。

 

僕の人生の女性関係ほぼ辛かったな。

 

僕が観測される立場になったら、好きに見れば良いと思う。何を選ぶかは僕が関与できるところではない。要は、人の本質はやっぱりなんだかよく分からない中身にあるのだろうなということ。何の目的も効果もないところ。

 

 

そういえば、文学フリマを調べたらどうやら9月らしく、このままだと試験とは被らないから行けるみたい。匿名的読者としてしれっとステッカーと新刊を採取することを目論んでいる。人のことそんなに覚えられなさそうに観測されるから、マスクと眼鏡で武装して演技をすればなんとかなるかも。たまたま見かけて立ち読んで、、、

 

いや、かなり無理がある。嘘は付けないし、なぜだか認識されているし。であれば逆に、好きですって笑顔で言えるような練習をしといた方が良いか。

 

なんだか暗喩的な恋文みたいになっているけど、まぁしょうがない。ここ自体がそういうものだし。

 

では。

 

あわよくばもっとぐっすり寝られていますように。

 

おしまい。