現実感

     何処までが現実か。居ても立っても居られない感から思わず恋文を送って、この感情とはなんだろうと思いながら寝た。そうして早めに目が覚めてスマホを見るとブログが更新されていたから読んで、二度寝。JobとWork。

その後時計を見たら6時54分。いやさっき見た時7時過ぎていたから絶対おかしいとおもいつつまた寝る。その後、目が覚めると体の感覚がない。貧血とか熱中症の時に見える視点がぼやけて視界全体がぼやけた感じに加えて、痺れた時の筋肉の無感覚。なのに、体を動かしているのが俯瞰的に分かる。動いているのに実感がない。そうしてベランダに出る(悪手)と若干感覚が戻ってくる。

暑い。時計を見ると4時23分。朝なのか夕方なのか。道路では人が歩いている。ベランダもいつの間にか前住んでいた部屋の。これならなんとか大丈夫かと思っていたら、また無感覚。無感覚と実感の明滅。これは救急車呼んだ方が良いかなと、スマホを操作するのだけど、指も観念もうまく動かないから、130番に電話したり音楽を流したりしていた。彼は救急車を呼べたとしてもきっと玄関にたどり着けない。せめて1手目に玄関に向かって入れば。あとは救急車呼ぶよりもいっそ飛び降りた方が生き残る可能性が。というところで目覚め。今日一日感覚がちぐはぐだった。ちゃんと歩くし話しているけど、なんとなくしっくりこない。このちぐはぐは自分にしか感覚されない。

 さておき。今日帰ってからは、まずいちいちFnキーと同時にF2とか押す(セルの文末に飛ぶショートカット)ことが面倒だから設定を調べて変更した。設定から変更するのではなくて、再起動してプログラムの設定を変えないといけなかったし調べたのと微妙に違うしでなかなか時間がかかった。ただこの時間はちゃんと返ってくる時間。あとブラウザとWordとExcelWindowsのショートカットキーを漁った。とても楽しい。

メモ帳アプリに一応記録しているけど、いちいち参照しながらじゃ意味がないから定着したら都度消していこう。ちゃんと触らないと定着しない。やはり、全部のキーをブラインドタッチできるくらいでないといけないみたいだけど。こういう意識的な調整はなかなか現実感がある。ちゃんと自分の意志で指を動かさないと現実に反映しない。マウスはなるべく使わないようにしないと。まぁこんな話はどうでも良い。効率化は効率化を目的にしていると意味がない。効率化でできた余白をどうするか。

休憩終わり間際に森博嗣さんの仕事に関するエッセイを立ち読みした。何かを変えようとするときに本を読もうとする人は成功者のグループに入るだろう、日本人の半分くらいは本を読まないし、文章を読んでも頭の中で意味を展開できないとのこと。あと、人間関係の断捨離ということも書いていてどっちがオリジナルだろうと不遜な観念。何を思い至ったかグーグルさんに読書依存症というキーワードを聞いてみた。いくつかの記事とブログ。記事は、本を読まないといけないっていう観念があるなら読まずにいられないという観念に変えましょうというという啓発記事。本を読む人がいかに自分にとって本が有用かということを述べるもの。こんなの娯楽だし、特に依存症感はない。娯楽に使える余白の中で読書を選択すればこういうことがあるよという話。何もしないなら本を読んでおけみたいな。

ブログは依存症チックだった。現実の困難から逃避するために本に居場所を求めているのだとの自覚あり。なかなか美味しい文章。更新頻度もまぁまぁだけど、美味しいだけで特にひっかかるものはないという。僕はグルメでも偏食でもないけど一応傾向がある。

ただ、依存症の定義としては適切。要は、自分が区切った時間を侵食してくる対象。本を読んでいて通常の睡眠時間が大幅に削られるとか、本のことを考えていて仕事で失敗するとか。アルコールとか、共依存とかもそうだろうな。対象と自分が混ざってしまうこと。本の師匠はやや依存傾向にあったかもしれない、そういえば。

これを踏まえて僕と本の関係はということを考えてみたけれど、本と僕は混ざってはいないなというのがまず1つ。本を使うものだとしている記事的なものでもない。まず想起されたのは本の奴隷に近いとの観念。本は別に読み手に同調することも同化することも求めていないし、ただ、読まれることしかできない訳で。奴隷じゃちょっと立場が偏っているなということで色々言葉を当てはめてみたけどなかなか見当たらなかった。友達でもないし、恋人でもなし、欠けてはならないものでもない。欠けてはならないものって水とか空気とかそういう水準。一番近いかなというのが共時性シンクロニシティとも言うけど、たまたま僕がその本を読めて、その本もたまたま在ったという偶然の一致の関係でしかない。

だから、僕は本に最大限時間を当てているけど、その時間は操作できるものだし途中で止めてもなんの問題もない。本は僕を操作しようとはしてこないし。たぶん現実化としては依存しているのと一緒くたになるけど、区切られた時間の中でしかない。1日24時間のうち平日はせいぜい2時間。睡眠時間と仕事時間を除いたら相当な比率だけど、この比率を守るためにショートカットキーをいっぱい使っているだけ。

独り身である意味もここにあるのかと思うと、なかなかの自尊心。ここでいう自尊心とは自分が比較的に価値ある存在と認識できることではなく、ただ自分で在ればええわということで生きられること。

生き死にで言うと、生活圏から離れた人はもう当人にとって死人でしかないという観念がある。だから人は関係の継続を問題にするし、継続するために自分をある程度殺せる。これを考えなくて良いのが仕事かね。となってくると、ある意味家族とか友人とかも一種の仕事なのかもしれない。自分が在るべきところを自分以外に依存するなら、そこを守るために義務感が生じるのは当たり前。義務ではなく義務感ね。義務がないと思えるなら相手が義務感を負っているのかもしれない。知らんけど。

僕の文章読んで意味を展開できる人っているのかね。選択の話的ベルグソンさん。自分は自由に選択していると思う人は、他人が次に起こす行動も予測できるという観念に対する思考実験の話。本当に予測するためには相手を完全にコピーした現実を生きないといけなくて、それは結局、相手がただ行動したというだけに等しいとのこと。言葉足りてないのは自覚している。

人って自分の明日の言動を予言できるものなのかいなというのが素朴な疑問。僕はそもそも未定にしつつあるから、他人のことなんて余計に分からない。分かるとすれば、相手が自分をどういった対象として言動しているか。交換可能性とか代替性があるものとするか、自分にとってなんらかの利として使用できるか。

そもそも、人にとって欠けてはいけない人の存在なんてない。欠けたままにするか何か埋めるか、どちらにせよその誰かが消えても人は生きていくわけで。

僕は想い人を安眠作用に使用している感は否めない。物理的存在としての想い人を使用している訳ではないからまだ許されているのだろうけど、という推測。これも想いの偏向かもしれないし別に関係ないけど、想い人は、やめとく。直に伝える機会があれば伝えるということで。

伝える必要がないことで言うと、ちゃんと自分の可処分時間の中で接してくれているよなぁと。僕もそうだし。何かの奇跡が起きたとして恋人関係になったとしても、お互い時間の使い方が変わる訳ではなかろうと、これは空想。

自分の為に時間を使ってくれることが想いの強さだと思う人は多い。確かに手っ取り早いけど、それは定義として相手を使用していないだろうか。

 

では、皆さんハッピーでありますように。

 

 

 

 

 

 

 

ただただ

 Gmailを覗いていたら?ブログの思考の坩堝が開設から半年とのメッセージ。受信フォルダは毎日消すために見る。定期便は全部来なくてよいのだけど、メルマガの設定がややこしいものもあって。精神衛生上フォルダは空が良い。本当に大事なのは自動振り分けフォルダ設定をしている。どうやってしたかはもう忘れた。

 そう、半年。あまり記事数注視していないけど、177かそこら。よくもまぁこれだけ無駄な文字を生産したものだ。概算すると、1記事2000文字として、まず200をかけると4の後に0が5つだから40万文字。そこから2000に23をかけた46000を引く。35万4000文字か。確かに坩堝である。計算は自分の頭でちゃんとした方が良い。180かけてから3かけたものを引いた方が単純だったな。36万ひく6000。もっと簡単な手法もありそうだけど、まぁ良いや。この文字数はここがあるから在る。そうして、コピペ先より遥かに読みやすいと思う。レイアウト的に。

 さておき。Excelはシートの移動のショートカットキーを覚えた。とても使い勝手が良さそう。シートを分けて整理しているからたまたまというところもあるけど、ショートカットキーは使おうと思わないと使えない。あるのは知っていても、使い初めには全然早くないし。1からを許容できるかどうか。最終的には全てのキーボードを見ずに操作できるようになることが目標か。これもきっといつかはできる。僕はポンコツだけど、継続には強いらしいから。

 自分にこれほど辛抱強い性質が備わっているとは思わなかった。飽きやすい奴だって言われてきたし、勉強をこつこつすることもできなかったし。高校の勉強はほぼポンコツ。でもこれは分かった。比較と与えられたものという不純物があったから。何時間勉強したかを毎日記録するような高校だったのだけど、やれといわれたら気力がとても削がれる。仕事はやれと言われたことをやればちゃんと給料が返ってくるという意味では遥かに義務的勉強よりは楽よねと。比較の観念は、当人とは無関係に凄いなら問題ないけど、自分がしたいのにできていないことできているという意味の凄いではやや困る。不純物感。

 ここに僕が欲するどうでもよさが出てくる。自分には影響しないけどよくもまぁそんなことやっているわーっていう自分と相手を切り離した凄さであれば僕は自由で居られるけど、自分と比べて凄いと言われると、貴方の劣等感を煽ることは求めてないという精神のブレーキが出てくる。精神構造の話だと良い人で居たいという無意識の固定観念から物理的身体にがたが来る人が多いらしい。僕はそういうのはどうでも良いのだけど、僕の存在が無意識に悪影響を及ぼすのは嫌だなぁと。僕は地道に継続しているのに自分はちっとも進んでないみたいな観念。人は自分にしかなれないのだから、方法論は人それぞれでしかない。個人の尊重って同調の対極にある。なかなか難しいとは思うけど。

 今日読んでいて面白いなと思ったのは、デカルトさんの方法序説が言う「方法」って、歴史をリセットするものだったという記述。歴史の拘束から人の観念を開放して、どんな人でも同じような結果が出るようにするという試み。方法序説って国語の評論の部に載ってもよさそうだけど、何か不都合があるのかしら。自分の歴史をリセットする方法論って現代でも需要があるような。なんとか法みたいな本とか。デカルトさんのは、もしかしたら何かをしさえすれば良いという手っ取り早さはなかったから浸透しなかったのか。ちなみにまだ原文さらってない。

 アランさんは書物の文字に埋もれた人は現実の儀式とか儀礼がどれだけ自分の無意識に寄与しているかが分からないと言っているし、吉田武さんは決まっているように見えているものという習慣が思考にとっては不純物だと言っている。もちろん意訳だけど。

 感覚の統合としての現実感でいうと、僕は現実とは外界という対象を自分の感覚器を通すことかなと思っている。夢想も空想も含まれているし、寒さ暑さとか苦さ甘さとか心地よさとか書物とか、諸々自分を通るものは全てが意外であり現実。その中で何に偏るかという選択が物理的感覚器とか社会的観念に寄っているひとがいわゆるまともなヒト。

 物理的感覚器は当然だけど、なんというか、読み取った後のものが楽しく在るように生きることが命なのではとか。僕は個人的そろそろ退場するのではないかという感覚と一緒に生きているけど、読める本が進行形で拡がっていることはとても楽しい。例えば歴史小説は読む気すらなかったのに、水滸伝があと2冊になったし、哲学書おろか翻訳された洋書も全然読めなかった。演劇もきっと旧来の自分では見ることができなかったし、まして劇評とか無理だった。

 

更新しつつある感覚器であることが僕の定義。

そのためには素朴な感覚器である五感はおろそかにできないし、書物を読むための感覚器はまた別にあるけど、そこも磨き続けるしかない。だから、読み取った後のものは本質ではない。きっと意味が分からないだろうけど、もともと読み取りたいこととか結果ありきでは生きていないということ。本の師匠が言っていた、貴方は読む人だというのはこういうことなのかね。

 

あぁそういえば、ベルグソンさんが書いていた選択の話。可能的過去の選択肢。自由とはなんぞやの話。人が想う選択肢って、未来じゃなくて過去に向いている。選択した後に、あの時違うことも選択できたということが本当に自由なのかと。ベルグソンさんはもちろん一蹴するためにこの例を一蹴する為に用いていた。当人は言っていないけど過去の自由性って、単なる想像力の範疇でしかない。

 

 僕は随分自由になったけど、自由とは何かって今の行動でしかなかろうと。相手が僕に対して自由に振る舞っているのかもここを読む。というか、自由は今しかないでもいいや。

 どうしようもない好きもこの文脈だろうなぁ。悪影響になっているだろうリスクの方が重いのに、今居ても立っても居られない観念。ただ、物理的五感が感得したいとも違うからややずれている。適切なのは、好きと言えるうちに言っておきたいかなぁ。そのうち、言えなくなりそうだし。と言う退場観念。退場観念のが現実的。

 では、皆さん楽しく生きられますように。

 

 

 

 

大事

 繰り返し繰り返す。Excelでの整理は帰ってからの晩御飯作る間の時間に組み込むことが決まった。30分ぐらいしかないけれど、楽しいし時間の確保としては今の所これくらいが限界。一章分くらいずつは進められる。大事なのは整理した情報をどう扱うかというこの先にあるし時間を区切られた状態でどれだけできるか。関数は現状それほど優先順位が高くない。定量的にデータを扱うことに興味があまりない。ただ、今後を考えると覚えておいても損はないかなという程度。そういうところは関数よりもAIとプログラミングが気になって居る。

 そういう感じで本日は自分の効率化というか、生活の質のようなものを考えていた。切り詰めるところは真っ先にここと思わせて、ここは割と高い。言語化の手慰みというか練習みたいな意味で。で、一番簡略化されそうなのは夜ご飯かなと。作る時間は良い。次の日で買うとすれば起こり得る無駄な待ち時間と相殺されているし、並行的に作るのはなんだかんだ頭を使うから。問題は食べる時間。晩酌とセットだと文章時間にも直結されているけど帰宅してからの時間に、ただ食べる為の時間を20分とか取って良いものか。断食の情報も見てみたけど食べなくなって体重が減ってしまう恐れ。今がぎりぎりちょうど良いから。没頭していたら平気ですっぽかすということは食べる時間って優先度が低い。そのための味。食に感謝とかちまたには言うけど、感謝って儀礼的な意味じゃなくて、自分の味覚を自覚することでは。前々世代は飢えないことへの感謝だったろうけど、今は自分が美味しいと感じられることへの感謝。ともあれ飲まずに食を保てるのかどうなのか。納豆かけご飯で良いという気もするけど。色々試行錯誤してみよう。

 平日においてぐだる時間はほぼないから、どこを削るかがとてもシビア。中間媒介である言語化された倦怠的感情がなくなりつつあるともいえるかもしれない。でもこれって若干過労死のような傾向とも思えなくもない。自分の疲れが感覚できてないみたいな。ただ割と体感も注視しているから、そんなこともなかろうなとも。身体感覚が一番影響されるのは、なんといっても思考。思考は人間の維持にとってとても優先順位が低いから、体が維持されてないとやすやすと揺らぐ。例えば風邪引いて熱が出た時とか肉体が思考を支配しているし。

 さておき。あとは、道具と心身の拡大についての思索。言語化するなら法律学の方が役には立ちそうだけど、役に立ちそうという観念があるだけで萎えるのが自分の精神。調整が大変である。

 道具と心身の観念的範囲の相関について。発想としては道具を自分の延長とみなすのかなぁという種。昼ご飯辺りに考えた。もやもやしてあまり言語化はできなかったけど、所有の観念があるのかなと法学と繋がる。近代の法律学は、個人に財産の所有を認めることで、個人の観念を拡げた。というところで、所有している財産で優劣を量るとか、移動手段によって自分の範囲が拡がるとか。

 知識を道具とみなすなら、より多くの知識を持つことで自分が拡がるということになるのだろう、という方向が精神の拡張。知識が更新されているから過去の人は遅れているという観念もきっとそう。でもこれって、道具が発展しているだけだから、当人が自発的に何か拡げたわけでもないよなと、素朴な疑問符。

 読み進めている生物学によると、人間が二足歩行になったのは、一夫一婦制になったからという説が今の所有力らしい。なんだかロマンチックである。両手が扱えることで食料をいっぱい奥さんと子供に運べるようになったとか。道具は副次効果なのかね。関係ないけど、二足歩行は足が遅いらしい。

 ここで思うのは変な話、関係も自分の拡張をもたらすのだろうなということ。どう論理的に繋がっているのかは不明だけど、誰かのためとか、誰かを求めてそれが返ってくるというのは準自己人格なのだろうなと。人格の存在範囲が拡がるというかなんというか。

 僕はどうなのかという話。本を読みまくっているのは自分を拡げるなんてことはなくて、むしろ絞っているというか、凝縮する行為。道具も自分のあくまで自分の身の丈で使うから道具は道具でしかない。所有の観念がとても薄い。この今まさに文字を打ち込んでいるパソコンも、僕の範囲を拡げているものではなくて、僕が使っているだけ。なくなったらまぁ不便だろうなぁとは想像するけど、なくなったところでまぁしょうがないかというだけで、喪失感はそんなにないと思う。

 物を良く無くすという癖もこういうところと繋がっているのではと勝手に思っている。僕も一昔前は色々亡くしていた。財布とか鍵とか。年末年始のちょうど良い時に家に入れなくなって何日か疑似ホームレスしていたのは良い思い出。それでも本読んでいたけど。

 直近の元恋人さんは母親から貰った高価な物を良く無くすということだったけど、これっておそらく母親からの抑圧への無意識から来ている反発なのでは。大事にしろよーっていう押し付けに本心が抵抗している。本当はそんなものに価値置いていませんよっていう無意識の憤怒。もちろんただの想像だけど。でも、無意識の憤怒は肉体に影響するらしいから。

 要は、僕は本当の自分の形がどういうものかということに道具とされているものを使う。何処まで自分がそれを扱えるのかとか。移動手段だと徒歩が一番しっくりくるかなという感じ。自分を移動させるのは自分の体が起点だから。自分が動きたくないから交通機関を使うではなくて、自分の体では行けないところには乗せていってもらうという感覚。自分が1から作れるならともかく。

 芸術の体系がとても面白い。夢想はあやまった知覚だとか。確かに金縛りの時にカーテンのしわとか布団のしわが人の顔に変換されて割と怖い思いはしたことがある。芸術とは現実的な物質を創り出すことだというのもとても分かる。

 ただ、思い込みは本当に誤っているのかという問題提起。確かに思い込みを他人との共通項にしようとすれば、それは誤っているというか、思い込みを共通項にするためにちゃんと言語で説明できないといけない。けど、人の認識ってほとんど思い込みではないかとも思う訳で。その思い込みが一致することが自分の認識の現実性を補完するのだろうけど。これは脳科学的にも言えそう。現実とは五感の複数が一致することだそうだから、他人との一致はその延長にある。

 個人的にはそんなこと知ったことではないという立ち位置。現実感とか充足感なんて自給自足できるから、誰かと一致する感情とか感覚とか知らん。一致することで充足するという観念の人と相対したら合わせるけれど。

 でも、美は、自分が積んできたものでしか感覚することはできないとは思う。自分が美しいと思う対象がすなわち自分を顕す。美を感じることにも余裕が要るし。

 あー、想い人を想うことが思い込みの可能性について。色々想定してみた。この話書いても大丈夫だろうか、なんて考えてはいけない。パートナが居るということだからこの想いは普通に考えると無駄だし、でも、自分のことを好きかもしれないという邪念が一粒もないと言うと嘘だけど、そもそも、返ってくることが想定された想いではない。なんで触りたいのが手の甲なのだと直近の自分が送ったメッセージを見て思ったけれど、なかなかのマニアで良いかなとか。確かに触れてみたい。最近の安眠のお供は腕枕をしながら抱きしめて、「頭を撫でて良いですか」って聞いてお許しを貰って撫でる空想。

 確かに、思い込みではあるけど、思い込みを許している。物理的に在るかどうかは問題としないという観念からすれば、精神に作用するのはまごうことなき現実で。僕の祈りによって安眠できていれば申し分ないけれど、それは境界を越える観念。

 現実と非現実の境界が曖昧だという説もあるけど、僕の肉体は今の所精神と一致している。空想していて肉体が動かないこともないし、ちゃんと分けながどれも生生しいというだけ。

 

 では、みなさん良い夢を。

 WordExcel判例と条文を整理していた。情報をまとめるのはExcelの方が適しているような。刑法だからというところもなるのか。構成要件を整理していた。刑事裁判は一般の人には関係ないように見えて、今や裁判員として選ばれることもあるからそれほど遠くもないか。でもその前にも検察審査会があった訳で、なかなか当たらないなぁ。

 言語化してもあれだけど、構成要件はある法益を保護するためにどういう型を犯罪とするかの類型。法益は、刑法が保護する利益で人の命、体、財産という私的な利益から公共の危険とか国家の公務とか諸々がある。具体的には、主体、客体、行為(客観・主観)、結果等だけど、これはまだ抽象的で、条文ごとに類型がある。まぁ犯罪が何であるかは国家が法律に基づいて決めるという観念が大事だと思う。道徳の法律化という面もあり得るけれど、問題はどう悪いかの具体的な中身。人が人を害しうる存在であるという歴史の積み重ねという面もある。ともあれExcelはセル間の移動とかAltキーから挿入するとかFnF2とかのショートカットでキーボードだけで操作できるようになるとまぁまぁ早い。事務処理能力はまだまだぽんこつ

 判例とは、最高裁判所の判断なのだけどあまり厳密ではない。広義とか狭義とか法律学が良く使う言葉。当事者が具体的な事実を争って、争点に対してどんな判断をしたかというのが大事なのは、次回以降の具体的事実がどう同じでどう違うかによってどう判断されるかの見込みが立つから。こちらはWordでまとめているけど、あまり綺麗にまとまらない。結局は何をどうまとめるかが曖昧であることが問題な気がする。触り方が足りないのだろうなぁ。あと4か月くらい間に合うか。

 あとプレゼン資料とかを考えると、PowerPointもできるようにならないとぁと。あわよくばPhotoshopみたいなデザインとか。センター試験を勝手に受ける野望も忘れていないからまだまだ足りない。ただ、足りないことへの渇望と自身が相関しているかというと、それも違うような。なんだかんだ楽しんでいるし。誰かの気分を害するのもしょうがない。生きている張り合いはずっとずっと内部にありそう。というか、なくても僕は生きているのかも。最終的にはどうやって生活するかという問題になりそうだけども。

 さておき。ご飯が足りないので補充してきた。物理的な方はほぼ問題なかったけど、水洗いするだけでサラダとして食べられるという水耕栽培の春菊があったから補充。たしかにアクが全然ない。サラダほうれん草もあったけど、水耕栽培だと何で洗っただけで食べられることになるのか。スプラウト系、豆苗とかも生でいけるから、日光に当てないとか自然の土でないことが何かの条件になっているのかね。と、思うと、ではもやしはなんで火を通さなきゃいけないのだということになる。もやしも水耕栽培だと思うけど、キノコ類と同列なのかね。浄水器は、確かに匂いがしなくなって快適に飲めるけど、既にやや水が漏れている。これは多分もともと古くなっていることによるだろうから、別にクレームしようとは思わないけど。

 精神的ご飯。肉体は循環的だから、悪い物食べても続けない限りそのうち食べたものはなくなる。続けるというと精製された砂糖が鬱とかに影響があるという研究があるらしい。おやつを食べるなら、精製されてない砂糖で自分が作った方が良いみたい。果物の果糖とか炭水化物の糖質は問題ないらしいけど。でも、人格は不可逆的だよなと、何かを食べてしまったらその前には戻れない。記憶として再現できなくても無意識下に影響がある。その影響はほぼ無いとして良いだろうけど、完全に無いとは言えないから、僕の文章を読む時間があればその時間をもっと良質な文章を読むことに充てた方が良いと思う。まぁ僕が決めることではないから知らんけど。いや、退場すれば読まれることもないからそう意味では決めているとも言えるという内部的反論。確かに。

 宛てているからには責任を持てみたいな観念が考えられるけど、どういう影響をもたらすかは発信者には不確知で。唯一確定されているのが時間泥棒。ちなみこれはこのタイトルの童話があるらしい。小説じゃなくて学術書で読んだからこれは確か。主人公はモモという少女である街にやって来て。住民はモモに自分のことを聞いてもらうことで幸せになったっていうのが第1パート。その後、時間泥棒が登場する。時間泥棒は住民の生活を時短させて、節約した時間を奪うから住民の生活はどんどん澱んでいく。丁寧に仕事をしていた床屋さんが画一的な仕事しかしなくなったとか。これが第2パート。その後第3パートでモモが泥棒の奪った時間を取り戻すという流れになるらしい。原作がとても読みたい。いつか邂逅できるかな。

 不可逆的ご飯のために最寄りの古書店に行った。結構にぎわっている。まずは入口にある50円のラックを探ってみたけどめぼしいものはなく。あんまり頻繁に通うことがなくなったから、へそを曲げられている感。気になったのは小説なのにもはや形状が箱になりつつある京極夏彦さんの魍魎の箱だったけど、実際に買ったものは別になった。なんだか面白そうだなという直感に従ってゴーゴリさんの「外套・鼻」。本当は違うタイトルだった気がするし、おそらく読んだことあるし家にあるだろうなと思いつつ、「鼻」を読んでいる。ゴーゴリさんの文体はなんだか国木田独歩感がある。真面目に滑稽。

 もう1冊は、デカルトさんとかもあったのだけど、想定外の、アランさんの「芸術の体系」。美学についても気になっているから完全に外とは言えないし、「共通感覚論」にも交わっているし。ともあれ、美学の起源ってカントさんだったのねというところと、何を美として何を醜とするかの直感がどうあるかというのを探ってくれそうで面白そう。

 おそらく共通感覚論の方だけど、僕が最初に美学に触れた「美学入門」を書いた中井正一さんが出てきて、美的感覚は感情を媒介にしていると主張していたとか。確かにそういう面も実感としてあるけれど、美の本質って感情の外からやってくるものなのではという疑義。僕は学者さんの見解でも自分の中ではまるっきり正しいとはしない。だって、自分の認識を規定するのは自分だから。共通項とは違う。

 例えば、もう2年前か藤田嗣治展を見に行ったとき、直接鳥肌が立ったし、モナ・リザの精工なコピーもそう。何か得体が知らないけど訴えるものを創るのが芸術家なのかどうかは知らないけど、自分の感情とは関係なく美しいと感じる領域がある気がする。何気ない景色から美を抽出するとかだと、感情というよりも余白な気もするし。あと桜が綺麗に見えるのは経験的観念だとか。美術展巡りも加えるか。美を感じるのは主観だから主観に対しては敏感でないと。

 月とか植物とか建築物とか生活とか、美は至る所にあるけど、直近で人に対して感じた美って想い人だったなぁと。ストーカー的に遠目から眺めていたのだけど、振る舞いがとても綺麗だった。上下黒の服は黒子ではなくて戦闘服だったのかと直近のブログを読んで把握。

 好きだから綺麗に見えたという説もある。この条件を除いてもそう見えたかというと、たぶん見えただろうなと思うけど、この仮定はまぁまぁ無意味。人格は不可逆的なので。こんなの好きの根拠を補強することにしかならない。

 という風に、僕は論理と感情と感情の外を全部等価として生きているから、他人がどうあるかとかはあんまり関係がない。僕をどう扱うかも不問。

 では、おしまい。

 

 皆さん、自分を見失いませんように。

 

 

 

 

  

 

程度

 昨日の日記、もう少し細かく言語化できたろうにさぼったな。自然の積み重ねに対応して路地は人の積み重ねだし帰りの描写が甘い。眠くなったのだろうし他に注意が行ってしまっていた感がありありだからしょうがない。

 そういえば、邂逅という言葉はたまたまのめぐり逢いという意味らしい。予定として会えるという意味とは違うから誤用かなと考えたけど、いや、やはり邂逅で良いかなと思い直した。そもそも予定が合ったとしても絶対会うことができるかというと、そんな訳はない。体調が崩れたり、僕が日付をすっぽかしたり(明日本当に祝日なのかも不安)する可能性もある訳で。ということは、邂逅なのか予定なのかは程度問題でしかないから自分がたまたまだと評するのならそう表現して問題ない。あと、事後言語化としては継続性の要素もあるのかもしれない。一回きりだと思っていればもちろん邂逅よりの概念。これをこじつけだと評するかどうかもその人次第。

 さておき。今日は少し現実的な話。水とアルコールを買い出しに行こうと思っていたら、飛び込み営業がやってきて、浄水器を付けていった。1年間無料とのこと。これだけだととても胡散臭い。私人は意図なき行為をするけど、会社は利益を生まない行為ができないので。厳密にいえば、定款の範囲内だけど。

 経緯としては、大阪の水が良くないからその対策でと言っていた。ここではどこに利益があるのかは分からない。だけど、営業方法が心理学的に誠実だなと思って。たぶん疑われてきたからだろうけど。まず、設置して、飲み比べをさせる。確かにカルキ臭は抜けていた。その後、東急ハンズから買ってきたという恐らく塩素濃度の判定薬で視覚的に証明するという流れ。営業効果高いのは順番が逆だと思う。ただ、この浄水器がもたらすのは、カルキ臭を抜いて飲みやすくするだけかもしれない。成分的に特に問題がないのはご飯を炊いたりして分かっている、というか、経口摂取する物の悪影響なんて即時に食中毒にならない限り分からない。

 そうして、問題は法的にどういうトラブルが起こり得るか。契約としては動産の賃貸借で、相手は株式会社だから、消費者保護法の適用対象になる。とはいえ民法や消費者保護法よりも契約という合意が優先する訳で、どこかにトラブルの匂いがないかと探ってみた。例えば浄水器だとフィルターの交換が有料だから、そこでぼったくることもありうるなと。しかし、無料期間中はフィルター交換を何回しても無料らしい。あと気になるのはクーリングオフの記述がないところだけど、聞いたらそんな期間関係なくいつでも返却して良いらしい。

 あと考えられるのは、個人情報の漏洩だけど。会社を調べて見たら平成23年だし資本金300万円だから漏洩で信用落としたらすぐ潰れるし、インスタントでやっている訳でもないからまぁ信用しても良いかなと。本当は登記事項調べれば一発だけど、たぶんネット上の会社情報が登記とずれている場合監査入ると思われ。たぶんこの会社法務にしっかりした法的知識を持っている人がいないだけ。

 じゃあなんの為かと推論すると、なかなか難しい。名古屋が本社だから営業のための初期投資とも考えられるし、あとはデータ収集か。この会社の株主はこういう営業を承認しているということになる。

 僕は結構営業さんには痛い目見てきた、インターネットプロバイダ関連とか。なんだか御しやすいと思われるみたい。前の恋人さんも宗教の勧誘のピンポンには応えるなとか。確かにそういう傾向があったことは認めるけど、これって、自分がどうでも良いっていう観念の亜種でしかない。相手の言っていることを信じている訳ではない。僕は宗教にもたれ掛かるのは無理だし。

 そうして、今回の奴は、ここから先に何かトラブル起こった方が楽しいなと思ってしまう、自分の人生に不謹慎な観念。法的トラブル希望。営業の人達見ていて、何か言っているし僕もてきとーに応えているところを観測して、(我ながら外面良くなったなーという感想しかないという)。このトータルで考えた浄水器の無料は、大阪に対する情報収集なのだろうなという感。僕は全く関係ないから申し訳ないけど。営業の人も愚直に共通項で頑張っていた。

自分が積み重ねたものを自分で利用することを変に規制していた過去は、社会に対してじゃなくて、近しい人達に関する観念だったのだろうなぁ。僕の個人的ハッピー観念では、人生は命をかけた壮大な実験場になっている。ラスボスは母かしら。実験場であることと日々を大事にしないことは等しくない。

でも、恋愛感情の告白も営業みたいなものよね。自分に欲しいから自分がどれだけ与えられるかの交渉みたいな。僕が好き好き言っているのはここには全く関係ない。

ところで、僕が御しやすいと思われていたのも分からんでもない。僕は相手の観念に合わせていたし、そもそも人に対して、僕を認めてくれっていう欲求がない。疑似的にやっていたけれど、上手くいかなった。イエスマンに見えるだろうなぁと。もはや過去である。

時間泥棒は、悪いことをしているから奪って良いですかって直に聞く。というか聞いた。あと、自分のことを肯定してくれたから好きになった訳ではないとか。素朴な自我は実験野郎だから、自分が変化し続ける訳で、あるピンポイントの自我を肯定されたところで特に幸福感がない。自我の肯定に対する幸福感って何それみたいな観念。

これを踏まえて好きを考えると、自分にとって気持ちいい反応をしてくれることではない。どっちが先かは分からないけど、使用されても良いくらいに好き。が、最低限自分は確保する。

 やれやれ。来週の日曜日あわよくば美味しいことが決まっている本を購入できるけど、それまでもたないという。ウェルベックさんのセロトニンも読み終えてしまった。それほど悲しさは共鳴できなかったけど、最後らへんにトーマスマンの「魔の山」が出てきて、やっぱり村上春樹に影響された人なのだろうなと勝手に思った。ただ、読み通してみると、あんまりそんな感じでもない。性的シーンの使い方が明らかに違う。

 本の読み方で言うと、昨日で完結した本多孝好のミステリーのタネもだいたい気付いてしまった。そこに快感を得ることはないし、結論も関係ないけど。

 そうして思うのだけど、人は自分のことを肯定する人は求めていても、掘り下げる

野郎は求めていない。僕もそこまでの人物は現れないと思う。

 なんだっけ。言葉を音とか味とかに換算すると、誰の言葉が一番気持ちよい?

 

 では、皆さんがちゃんと個人でありますように。

 

 

 

 

 

日記

 どうでも良いけれど、僕はこれだけ料理をやって居ても食材の形を統一的に切るのがとても不得手。何故できないかと考えていた。形に無頓着だからと暫定していたけどなんてことない、利き目の問題だった。左目からでは右手で切る時正確に手元と一致しない。利き目を矯正することと左手で食材を切ることになるのと、どちらのコストが低いか。というか利き目って矯正できるものなのだろうか。左手で切ると良く見えるから、左手を器用にする方が早そう。一石二鳥的にキーボードも早く打てるようになるかもしれない。

 さておき。今日はひたすらよく歩いた。時間に換算、してもあれか。出来事としては宇治市植物公園に行ってきただけ。とても楽しかった。ほぼ独りになって思うことは、疲れも楽しさも、自分の中での言語化より、誰かから言われた言葉で観念が強化されるのでは、とか。独りになってやっと、何処に居ても楽しいなという観念が自由になった。仕事時間もそれなりに楽しいし、家だったら本読み放題で楽しいし、外に出れば世界が楽しい。人の言霊は何処かにしんどさが凝固されていることが多い。僕のハッピーの観念は共通観念にはなりえないだろうなぁ。次のハッピーイベントは来週の日曜日。想い人と邂逅できることと、想い人が書いた本を読めることのどっちがよりハッピーかと聞かれても断定はできないという。本と人は不可分。これは一般化すると言葉と人は不可分でも良い。

 まぁ、健全な肉体を持ち合わせているから、不健全な空想も当然想起される訳だけど。ここに応えられたら全力で触るだろうなと無駄な予防線。僕はまぐわいにおいて自分の昇天に重きを置いていない。

 ともあれ。日記的日記。

 仕事の日より早く目が覚めるのはいつものことだから、良いとして。昼頃に出発した。公式ホームページだと、京阪宇治駅からバスで15分。ふむ、歩けるなと。この時点でおかしいのだけど、まぁ歩いた。道を間違えないようにしていたはずなのに、運動公園にたどり着いてしまった。不本意だったけど本意より良かったという結果的ハッピー。サッカーをしている少年たちとか、手入れされていない自然とか、歩いている人達とか。

 おそらく僕の目的から来たおじさんから話しかけられた。「(ぜーぜーお茶飲みながら)この先に何かありますか、森だけですか。」この人が何を求めているのかは分からないけど、とりあえず森ですねと応えて、しばらく行けばサッカー少年団は居ましたよって応えておいた。おじさんは、そうですか、ありがとうございますって言っていた。なんにも応えられてないけど、このおじさん他人の邪魔をしているという観念を持ち合わせている感じがあって良かった。僕はそういう意味で道中誰にも声をかけない。邪魔して欲しいっていう人もいるかもしれないけど、それは外から見分けつかないし。

 そうして文明の利器を活用しつつこの公園を越えた先が植物公園だった。わくわく。初めてのはずだけど、あんまり初めての気がしないという。地形的には六甲山と近いと思ったけど、もっと前のような気がして。もしかしたら、僕の自我が形成する前に家族旅行で連れてきてもらったのかもしれないなと。これはそんな事実があったかどうかは全然関係ない。過去は事実と照合できて意味を持つものでもないし。

 植物の話。完全にシーズンから外れているから、鮮やかなものはほとんどなかった。あったのは冬桜のつつましいかわいらしさと、なははっていう菜の花系列の圧倒的春を思わせる匂い。天然の菜の花が群生しているところを歩いた記憶からミツバチの羽音が聞こえるような匂いだった。他の集団から聞こえてきた言葉だと、前よりも匂いが強くなったらしいから、ある意味ちょうど良いところで行くことができたのだろうな。基本的に植物が多いところだと元気が補給できるから鮮やかであるかどうかは関係ない。世界の積み重ねを吸収できる。

 温室もちゃんと行った。湿度がやたらと高くて、体感としての不快感は半端なかった。で、植物も割とグロテスク。植物としての生命みたいな生生しさが凄かった。木のほとんどは死んでいるという話を帰ってから読んだのだけど、逆算すると、ここの植物はだいたい生きている。バナナとかパイナップルとかもあったな。

 そうして、僕の物語としては、帰りもハッピー。帰りも駅まで歩いたのだけどもちろん違う道から帰った。宇治市は坂が多くてとても好き。僕は坂フェチもあるけど路地フェチの方が強いから、通行に使われている道から離れて生活から離れた道に逸れまくっていた。一軒家の家庭菜園もある意味植物園だなってほくほくしながら歩く。アスファルトから独り咲く、葉脈が赤で花がこじんまりしたタンポポに近い植物に焦点が絞られる。

 あとは、悠々閑々っていうプレートを見つけたり、ネームプレートから見た苗字で自分が何を想起するかを考えたり。悠々のやつは、僕の本名だし長閑とセットかよ、まさに僕かよというだけ。僕の時間性を誰かが観測すればとてもゆっくりだと思う。ただ、こう見えるのは、ゆっくりしようとするベクトルでブレーキをかけているだけ。相殺の結果。

 苗字の件は、自分がその苗字を見たときに残るかどうかは、経験に寄るということ。他の人は知らないけど、僕は苗字の中でうじゃうじゃしている観念がある。例えば、山田に何人記録されているのか。

 これって、要は自分の記憶の中で残っている個人とはなんぞやっていう切り分けだと思う。あぁ、ところでだけど、今日の移動時間の前にどの小説をお供にするか選んだのだけど駄目で、現地調達して、行きかえりの時間で読み終えた。

 死後に当人が残したくない情報を消すっていう仕事の話。この観念って、死後にも自分が残るっていう観念があるのだろうなと。死後に自分を残したいという観念は僕にはないけど、他人のことはちゃんとだいたい残っている。

 他人の中に凝固された自分についてどうでも良いと思えるように調整している。そのままでええけど、現実的な関わりにおいて、過去の自分を凝固されていると困る。でもそんな関係は原理的に難しい。

 やれやれ。最後。今日読んだ小説は電車の中で泣きそうなところがあった。本で結構泣くけど、これは僕の辛さに共鳴している訳ではない。僕は辛くないし、登場人物の境遇とかシーンとかで勝手に泣けるだけ。 

 泣く自分は恥ずかしくはない。泣いている姿を見せようとしたのは恥ずかしいけど。

 では、皆さん、ちゃんと世界を観測できますように。

 

ただの恋文

 知らぬ間に週末。そうして知らぬ間に三連休。時間の流れは仕事時間が一番楽かもしれない。楽というのは手を抜けるという意味ではなく自分で時間を決めなくて良いという意味。これは関係における時間というのもあるのかもしれない。まぁ良いや。

 どうせだから明日は宇治の温室植物園に行こうかな。宇治が京都の何処に位置するかも知らないけど、行きたいところには行こうと思えばすぐに行ける。これが移動の自由というもの。ただ、人それぞれ柵があるだろうから柵の外を想うことより内側でどれだけ自由に移動できるかの方が重い気がする。繋がりは安定だけど、その安定は不自由に等しいから、安定を得た上で自由を求めることは、隣のブドウは酸っぱいと同じ。僕は安定を犠牲にして身軽を選んでいるだけだから。

 時間の概念は割と根が深くて。某本で、社会的時間と文化的時間があるとのこと。社会的時間を基準にするのがまさに社会だけど、この当たり前を窮屈だと思うのが私的時間。ただ、これって、私的時間の内訳をあまり追求していないからという理由なのでは。なんでそこに不都合を感じるのかって、私的時間と社会的時間がずれているというより、社会的拘束が良く分からず合わないみたいな感覚なのではとか。

 細かい話だけど、時間は1つだと思っている人ほど、自分が相手の時間を使うことに無頓着。僕は私的関係における遅刻は特になんとも思わないけど、相手としては、特に重きを置いていないか、甘えて良いとされているかのどちらかだと観測する。甘えとは時間におけるもたれかかりだから良いけど、どうでも良いなら他の人と関係してくだされと思う素朴な自分。

 時間の尺って一応基準として時計というものがあるけれど、これって私的生活では目安でしかない訳で。電車の運行が分単位だから、待ち合わせも分レベルで遅くなったらイライラするという。基準を外に置いている。いや、別に現代日本社会においては全く問題ないけれど。

 ところで、半額だったからまたケールを買ってサラダにしてみたけれど、なんというか、全然味がない。栄養価が高くて味覚に訴えるものがないってサプリメントと等しいなと。これを食べて栄養なら確かに負荷はない。胃は量しか求めてないようだし。時間感覚と味覚を含めた五感の感覚は現実感という括りではほぼ同じ。現実感とはなんぞやって問われたら当たり前に在るものだから言語化できないってことになるはず。これほど味を感じない野菜は初めてだわ。

 あくまで自分を基準として生きてくると、社会的時間はほぼ意味がない。遅刻は一切ないし、アラームの意味もない。ほぼ確実に仕事には行ける。問題は私的な予約のところ。歯医者の定期健診とか我ながらよく起きたなとか。ここで混同してはいけないのが、自分のことを想っているのであれば、自分の時間に合わせてくれるはずという観念は自己愛だということ。容赦ないけど、この観念がある時点で私的関係における人は代替的だということが前提とされている。

 僕は別にそういう風に扱われていることに対しては何とも思わない。自分の私的可処分時間とのかねあいにおいては、僕じゃなくても良いなら他の人とやってくれとは思う。それなりに空白になるけど、その空白はそのうち埋まる。ということを逆からみれば、僕が誰かに私的メッセージを投げた時、そのメッセージの存在が、相手の私的可処分時間を殺していることに等しい。

 このことを厳密に考えられないのは、きっと社会的な時間でしか生きていないから。

 相手の好意に収まる範疇で生きることはやろうとすればきっとできるけど、他人を基準とするってとても難しい。自分を殺し切ってもなお足りない。関係を保つためには交渉をすべきだという観念があるけど、要は、好きな人の為にお互いが変わろうとはしないのねと。お互いが相手を変えようとしていてそこの妥協点。であれば他人は結局環境でしかない説で良いかなと。相手の為を想っているは自己愛。

 こんなことはどうでも良い。僕は身軽になって脳内がとてもクリアになった。記憶も時間も観念も必要ない。自分がそう感じることは、誰にも共感されなくても良い。想い人に対してすら。考え方が近いとか自分にとって気持ち良い人が好きだっていう概念は否定しないけど、僕はその気持ちよさを提供できる自分ではない。ほんとにそれでも良いのかなぁって。

 想い人に対しては僕が個人的に好きになった経緯があるのだけど、これは内緒。言語化はできるけど、一般公開はできない。

 だからおかしいなと思うわけで。その分からなさがどうしようもなく好きだなと。重みが違う。

 

では、皆さんそれぞれの現実生活を営めますように。