アナグマ

 

穴倉はなかなか心地が良い。現実的関係の人には見せないようにした方が気楽だ。

 

顕示欲が全くないとは言わないけど、関わる人が多いほど言語が不自由になる。これってなんだろうっていうと、現実的関係の人が傷つくだろうことも僕の記述的言語には含まれているから。実際傷つくかどうかより傷つくかもしれないっていう先回りが起こる。まぁそれでも貴方は言語を綴れない人を馬鹿にしているように受け取れるって言われるのだから、引きこもってしこしこ書いているのが一番なのかもしれない。

 

ともあれ、いずれ公に見えるところに書くべきって言ってくれた人もいなくはなかった。何をもってそう捉えているのかは分からないけど、喜ぶ人より傷つく人の方が想像は容易い。経験則というはなかなか拭えないもの。まぁ、動機がないところで只行為をするという意味では、書くことも行為に含まれる訳で、膨大な情報世界にたかだか自分の文章如きを流通させたところで、何も影響はないっていう意識が欠けている。自意識過剰っぽいけど、むしろ自意識が薄すぎるのでは思っている。

 

それが少し転換したのが、劇評を書いたこと。自分の名前で公に晒すことを予定して書く行為。特に文体が変わる訳でもないけど、意識は違う。ここで思うのは、僕はやっぱり主観を特に重視していないだろうなというところ。他人の感覚を借りている気がする。自己表現って考えると言葉は紡げない。

 

 

他人の感覚についてもう少し突っ込むと、ってこれ昨日も書いたような。

人は、基本的に自分の感覚と同じような感覚なのだとして人を見る。例えば友人は結構決めつけ傾向で、割と動機論者だと思う。僕に対してはただ変な奴として例外としてくれているから楽だけど、自分も生きづらいだろうなと見ている。人は動機に基づいて行動すべきだっていう規範は、動機がなぜ自分に芽生えているかっていうことまで考えないと、パブロフの犬とあまり変わらない。

 

はい、言い過ぎ。

 

じゃなくて、感覚的判断を理性的とみなすところに居心地の悪さを感じるという話。自分が動機に基づいてしか行動できない。だから、貴方もそうだろうなんて評価されたら、いやいや、違う行動規範で生きている人も居るだろうってなる。動機って基本的に善悪というか利害の判断だと思う。もちろん大事だけど、衝動とか不合理で行為することもある訳で、その自分は自分と認めていないというか自分の非なのかいって。

 

むしろそっちの方が自由なその人というか、本質のように思う。

 

僕の本質はかなりやばいと自覚している。

 

 

少し現実に戻して。

 

性交渉の話で、異性の家に個人で行ったら同意しているっていうのが社会通念だったっていう主張と、いやいや、そんなので同意ってなるのはおかしいわっていう主張があった。

 

これって可能性としてはどっちもありだと思うのだけど、どちらを常識とした方が安全かっていうのは明らか。常識としては危ないとしておいて、個人的関係において常識から外れるのと、常識的に大丈夫だと思って行ったら危ない目に合うのと。ここで話されているのは具体的な経験則の話ではないっていうことが把握されていない。

 

経験則で大丈夫だったとしてもそれが適用される関係は違う個人間だし、危なかったとしても然りだから、何を最低基準とするかというだけの話。僕は他人に対して、行っても大丈夫、何も起こらないよとは言えない。

 

し、うちを汚くしているのは、ある意味そういう自衛もあるかもしれない。

 

僕の経験則だとパートナーを欲求不満にさせたことしかない、は言い過ぎ、って語りすぎだから口をつぐもう。

 

最後、個人的な関係とはいえ、だいたいのものが社会的な名前が付いている。夫婦、恋人、友達、なんやかんや。関係性の拘束の一番強いものって、債権者債務者の権利義務関係。そんで、関係とは権利義務みたいな対価関係であるべきっていう思想が一般化しつつあるような気がする。これが悪いとも思わないけど。だって、考えなくて良いから楽だもの。多少窮屈だと感じたとしても、窮屈に勝る楽さがあるはず。僕は窮屈の方が思いから知らん。

 

おしまい。