袋小路

 

刺身の切れ端の盛り合わせがやや安かったから、海鮮ユッケに頭が囚われた。卵を割って黄身と白身を分けて。分けるのってお菓子でやるのだっけ。やった記憶はあまりないけど、なけなしの記憶だと失敗していたような気がする。随分と器用になったものだ。タレのベストはコチジャンだったけど、なかったから甜面醤で代用して醤油とごま油と刻み海苔。余った白身はもったいないから、炒めてレタスときゅうりのサラダの上に載せた。あと、冷奴。

 

先生は、褒めるのが上手い。同期も含め、既に戦力ですって。あと、対話交渉スキルは何処に行っても使えるって言ってくれるところを見ると、僕がいずれ他の所に行くというのも加味しているのだろうか。それでも同期の方が凄いと思っているけども。素でできるほうがコスパは低い。コスパは低く生きられる方が良いと思う。同期は同期で何かありそうな気がするけど、そこまで追求する余裕はない。

 

どんな個人も膨大な物語に違いはないけど、結局はどこまで読むかという時間的精神的限界に係ってくる。これは自分についても同じ。

 

小説枠は1つ追加。現代SFだけど、死生観とかにシビアなのが面白い。新書とかも書いているけど、どういった層の人が読んでいるのだろうとは思う。新書の方は結局自分が辿りつくものだという意味ではシュタイナーさんと似ているのか。

 

ノイズがかかる。

なんという繊細さ。生身の方が表に出てきたら言語能力が全然なくなる。これもままならなさなのか。生身が何ででてきたかというのも微妙なところ。自覚はある。

 

まぁこれはこれで。こうなってくると、言語が裏に回ってくるからいちいち拾いあげないといけない。この不自由さは現実生活と等しくて悲しい。いや、もちろんそんな自由な場などほとんどある訳ではなし。

 

我ながらめんどくせぇ。

 

思考のスケッチはもうできない模様。これって本来言葉にしたいから書いているものではないから。これを読んだ人のほとんどは意味分からないと思うけど。

 

自分の面倒くささについては書けるかなと思ったけど、凄い勢いで語彙が失われている。

 

失語症の書くバージョン。失語症まではいかないけど、個人的関係で口をつぐむのは経験済み。このパターンを解析すると、貴方は結局どうしたいの?って言葉で表現しろって言われるとバグる。態度とか行為よりも言葉が大事なのかって。分かる、分かるけど。

 

 

こういう精神になってくると、結局何も語らない方が良いのだろうなっていうことになる。きっと生身の僕はこう捉えていて。綺麗に居なくなりたい。

 

ここまでか。もうキーボードの感触すら重い。

 

おしまい。