より分け

朝ごはんはざる蕎麦、昼ご飯はレタスを引いた豚丼しじみの味噌汁(やや上質なインスタント)。夜ご飯は、真アジの刺身と枝豆と、レタスとトマトとオクラと茗荷と豆腐と鰹節のさらだ。お刺身はしょうがないけど、枝豆はちゃんと生のものを買ってきて茹でた。塩たっぷり砂糖少々。ためしてガッテン調べだと、干しエビを入れるとランク上がるみたいだけど、それだけのために買うのはやや違う。明日の朝ごはんはサラダうどんの予定。

 

ご飯だけはいっちょ前だけど、これは単にバランスの話。カレーが食べたくなったらレトルトを買う。

 

今日はややいけるかと思ったけど、なかなか難しい模様。けど、こんなの普通の感覚だろうなとも。自分の知覚内容をそのまま言語化できるはずないし、思考はキーボードで打つより遥かに目まぐるしく動いているし、どういう風に留めるのかというのも設計図を創った当人のもの。たぶん発話より早く動いている。

 

観測的な視点だと、僕は人の言葉をそういう風に捉えている。誰にでも言っている言葉なのか、僕にだけ言える言葉なのか。

 

要は、言語化は目的的なものであるということ。だいたいは自明だからそんな疑義はでてこない。自分で考えていることが言語化できると思っている人は、自分という読み手のための語り部になっているということ。なんというか、言葉が当人に隷属されているような。まぁこれはこれで1つの世界だとは思う。

                          

世界の捉え方。

 

どれだけ客観的に語ろうとしても、結局は自分という主観を起源としている以上、純粋な観測者にはなれない。そんなの当たり前なのに、観測者ぶれる人が多くなったのが現代なのかなぁとか。体感から人を一般化するのも、統計から抽出した人一般の傾向から個人を演算するのも新たな個人は捉えられない。むしろ既知の個人すら。

 

 

それはそうとして、色んな文脈から自由とか思考とかが何やら収束していて面白い。

 

 

道徳的自由は、なんだか嫌だったけど結局は自分が決めるものだっていうので腑に落ちた。シュタイナーさんはかなり感じやすい人だったのだろうなと。あんまり出自までは見ていないけど、あえて本にしないといけなかったのは、観測対象に同じことを思考している人があまりにも少なかったのだろうなぁとか。

 

道徳について語るとき、外の世界の規律から語る人があまりに多いのは分かる。単なる自分の要求がたまたま常識と一致していたら大きな規律に従うべきだと言う人。

 

こういう手法って、カラマーゾフの兄弟キリスト教老子の言に近い。人の罪悪感を煽って行為を誘導するのは、他人のことを人としてはあんまりみていないような。

 

仏教だと、自分の執着に潜って、なおかつこれは自分じゃないっていうのが無我らしい。この無我観は分かる。要は、自分の魂みたいなものだけを独立させる手法。ただ、執着は自我の根本だから、これを取っ払った後に残る当人はもはや人なのかっていう疑問はある。聖人は人じゃないし。

 

仏教といえば、日本に伝わっているものって木魚でリズムをとりながら韻を踏むって、音楽と一緒だなと。メッセージ性が一番浸透するのは音楽だと思う。この浸透性は問答無用。

 

古事記もなんだか言葉のリズムを重視しているようだし。イザナギイザナミを迎えにいこうとした、よものひらさかとかたかまがはらとか、文字の選びから秀逸なような。

 

 

おやすみなさい。