ろーるぷれいんぐ

遊びとは怖いもの。

 

今週初め陰がやたら濃くてあぁ8月だなぁと思った。でも、陰の濃さを感じたのはその日だけで、後はそれほど。最寄り駅に行く途中で子供達がスクールバスに乗り込む風景がないのは夏休みなのだろう。長期休みも観点を変えると大変だろうなと思う。

 

そんなすっきりした風景とは別に、カラスに荒らされた生ごみがマンションの駐車場に転がっている。普通に考えて、所定の倉庫みたいなところに入れて扉を締めれば、収集日からずれていても荒らされることにはならないのに、わざわざ倉庫の外に置いたようにしか見受けられない。どういった目的なのだろう。定期的に怒っている現象だから何とも言えない。もしかしたら、何かを憂さ晴らしで外部の人が早朝にごみ倉庫からわざわざ出しているのかと思ってみたけど、どちらにせよ意味が分からない。自分が捨てたごみがそうなっていたら明らかにこっちになるけれど、そんな現象は今のところない。早く引っ越せってことか。

 

戻ってきて、夏休み。大変だなぁと思うのは親御さん。子供が学校に行っている間にできていたことができなくなるだろうなぁと。共働きなら余計に。給食で回避されていたお昼ご飯とか。僕の当時は、母親は養護教諭で父親は農家だったから、夏休みは毎年旅行に行っていたけど、色々調整が大変だったろうなぁ。

 

そうして子供目線。徒歩圏内に友達がいる長期休みって嬉しいだろうなと、都会の夏休みを観測している。まぁ中学校以降だと部活があるだろうから小学生で。僕は小学生の夏休み何しいてたっけと回想。

 

低学年の頃は、まだ人も多かったから、生活圏のまとまりも機能していた。川の水をそのまま持ってきたプールに行っていたような朧げな記憶。当然魚も一緒に入ってくるから一緒に泳いでいた。あとはお盆の親戚の集まりとか、地域の祭りとか。

 

でも、何もなかった日に何をしていたかというと、良く分からない。家でごろごろしていたのか、友達の家に泊まりに行った記憶もあるけど、泊まるってことは、日帰りできないほどの距離の一大イベントだったのだろう。

 

なんだか時間がありすぎると抜け落ちてしまうことは多いのだろうなとふと寂しくなる。小中高の関係って一切残っていないのだけど、今の僕が興味ある人は、当時あまり自分が関係していない人だし、人生はタイミングでしかない理論が沸き起こる。関係が続いている人たちは素晴らしいと思うけど、気心知れて楽とか、関係は継続しないといけないっていう義務を取っ払っても関係できるのだろうか。

 

やれやれ。

浅間山噴火か。

 

 

 

そうして、遊びの話。

 

シュタイナーさんは自由を凄く高尚に語っている。確かに自由とは外付け価値観しか行動の基軸にできない層には分からないっていうのは分かる。けど、その先の自由って結局自分の根っこを基軸にした遊びでしかないのではって思った。一般的基準とか常識みたいなものを外して、自分が欲することをするのが自由だって、明らかに遊びじゃんって。

 

自分が生きている社会条件と、自分の欲求を踏まえてどこまで自分の根っこに従って振る舞えるかって、自分を駒として遊んでいることと等しくないかと。これって解脱の観念とも通じるのだろうなと。つまり、衝動とか欲求とかもっと言えば渇望みたいなどうしようもなく感情も行動も動くことを、自分で俯瞰してどこまでコントールできるかという自分を使ったコンテニューなしのゲーム。

 

そうして、コンテニューがないから人生というゲームは怖い。自分が決める面白さと、後ろ盾がない怖さは質が違うから、比べられない。

 

ただ、ミクロでは遊べてもマクロで遊べる領域には至っていない。マクロで遊ぶって、要は他人を自分の人生の手段にすることだと思う。僕はマクロでは不自由を自発的に選んでいるように見える。他人から返ってくることを求めているのではなくて、他人から求められたとき、これは相手の欲求だと思うと応えてしまうということ。

 

自分の自由と相手の自由がぶつかったとき、自分の自由を曲げる。何故なら、ここでの基準は僕の基準じゃないという基準があるから。これっておかしな話だとは思う。でも、これももう少しかなって。これを基準としていたら条件付き好意が当たり前って感覚のままだったけど、そもそも好意は無条件なものだろうって基準が勝ってきているし。

 

よし、強制終了。

 

おやすみなさい。