僕の世界とあなたの世界

感情は起こりなのか過程なのか結果なのか。

 

 

今日も良く食べた。食性考で、食は世界を壊して自己に取り入れることだというフレーズ。女性性は持っている人、特に性被害を受けた経験があるような人にはグロテスクで見るに耐えないような民話が続いていた。まぁ性に神話的な意味合いをつけないとやってられなかったというのはあるのだろう。自らが動物より高次のものだって認識するためには、ここをコントールする装置みたいなものが必要だった。食と性の直結もなんとなくここに引きずられているような。排泄に対するタブー感も。

 

人間は自然から離れた存在になったのだっていう思い込みがありそう。僕は自然の対義語が人工っていうのに勉強した当時なんとも言えない違和感があった。

 

食べ物という自分とは違う世界の構成物が自分の構成物になるプロセスとして、消化吸収は不可欠。これを、精神的なプロセスとパラレルにすると消化吸収は思考になるはず。少なくとも思考は摂取ではない。

 

 

さておき。

今日はどこまで言語化できるか。

 

 

夏の良いところは洗濯物がすぐ乾くところ。朝干したものが夕方には乾いてくれたから、生活圏から離れたところまで買い物に行けた。欲しい物は欲しいと思った時を外すと価値が減損する。ということで、お目当ての本を2冊だけ買った。丸善ジュンク堂はほぼほぼ網羅しているところだから、欲求が際限なく出てくるのだけど、そういう欲するものに従って良い時と従わない方が良い時があって、今回は後者。本筋のついでにあれもこれもって湧く欲望は、あまり良いことがない。本増え過ぎて読み切れないという面もあるけど。

 

本が何故好きなのかって考えたとき、所有するだけではなんの意味もないというというところだろうなと。本を所有物として扱う人は綺麗に読むことを大事にするだろうけど、価値はそこに書かれている概念であって、読んで消化吸収するプロセス。

 

1冊目。

 

ひとりで学ぶ刑法。まぁどんな学問も1人で納得するまで突き詰めるしかないのだけど、ともかく。刑法ってなんぞやっていうことはずっと思っていた。もちろん、一応何年もやっているから、法益という人の社会的な利益を守るためにあるっていうのは分かるし、自由行為と社会秩序のギリギリを保つっていうのも分かる。けど、そもそもなんなのだ。っていうところ。

 

これがなんとなく腑に落ちた。多分個人が個人を裁くことの総体なのだろうなって。もともと歴史上人を裁くのは国のトップの元首だったし、私刑も許されていたし。これじゃいかんってなったのが、近代の法で決めようっていう価値判断。でも、その根っこには素朴な人間のものさしが脈々と生きている。僕は一回だけ個人的に人裁いた経験があるのだけど、胸糞悪い記憶としてか残っていない。人が人を裁けるっていう感覚はこういう法感覚からのトップダウンであって、自由じゃない。ニュースが流れた時に平気で重罪をとか無罪は不当だって言える人がいるけど、これこそ人を尊重できない観念で、世界はこれを克服しようとしてきたのだろうなと。感情的な判断で人を裁くと社会が成り立たない。

 

そうして、もう1冊は全然色合いが違う本。「人はなぜ腰痛を選ぶのか」

別に腰痛持ちではないけど、他のところから、この本は肉体の継続的な痛みのほとんどが精神に起因している、っていうコンセプトだって見たから面白そうだったから。少し見た感じだと、緊張が原因とのことらしい。緊張って何ぞやっていったら、自分が決めているっているより、こういう状況では緊張するべしみたいな社会規範が起こりなような。アメリカの本だから、アメリカでさえこういうことがあるらしい。

 

まぁこの本は読み進めるとして。

 

結局人とはこうあるべしっていうのを外から決めつけようする圧力が強すぎるところが原因なのかなと。自分の行為規範を相手によかれと思いつつ押し付けるっていう人は見かけたことがあるだろうし、自分もそういうことをしている場合も多い。

 

僕は随分と楽に生きることができだしたのだけど、これって、人間関係を削ったからに他ならない。例えば、ずっと素朴な感覚として、自分のことは肯定も否定もしないのが一番良いっていうのがあったのに、これをネガティブと捉えら、自己肯定感をもっと醸成しないといけないみたいなものさしにかき回されて自分を見失うという。

 

僕が自分は評価対象にならないって言っていたのは10年前くらい。その頃はなんの後ろ盾もないひらめきレベルの感覚だった。

 

 

僕が自分をほめることが要らないって思うのは、褒めないと行動できないって自分をペットのように見ている感があるし、ポジティブじゃない波の時の自分は自分とされないのかっていう意味、自分の中で負のエネルギーが溜まる気がするというところ。

 

もっと自分を信じてあげれば良いじゃない? って。

 

自分を見つめるために1人の時間が必要だっていうシュタイナーさんの言うことは一理ある。人と関係している限り、他人のものさしに常々晒されるから本当に自分の価値観で良いのかって疑念が起こるのは仕方がない。

 

我慢はいけないとのこと。我慢は、相手のことを下に見ている傲慢な態度なのだと。だから邪気が溜まるらしい。僕ならもう少し進んで、自分の言葉は有限だから無駄に発することはしないって規定する。相手が誰かは関係ない。

 

批判も否定も、自分のあるがままが不確知だから出てくることなのではという仮説。自分のあるがままを探る思考って一般的にはかなりキツイ修行であるらしい。コンプレックスとかトラウマにもう一回潜るし、自分が他人をぞんざいに扱ったことも反芻しなきゃならない。

 

僕が取り出してきた自分は、結局他人と関係したくないとか他人を消費したくないっていう感覚も程度問題でしかないというところ。

 

最後。

 

自分の恋愛感情を解剖してみている。恋愛感情ってなんぞやっていうと、自分の資源をどれだけ使っても相手を確保したいという心の動き。つまり、この感情には対価を求めることがセットになっている。これって、まぁ原動力にはなるかもしれないけど、個人的にはコスパが悪いと思う。所有欲とはもともと相性悪い。ここから、相手を想うことだけを独立させると、まぁ楽しい。

 

あー、好きだなぁって。切ない自分も5年ぶりくらいだし。

こんなこと当人に見えるように公開するものではないけど、こういう精神解剖学的なのがお好みなような気がしているから。

 

冒頭に戻ってくるけど、感情は誰のものでもない、自分のものだから、その感情をどう扱うも自分次第。ということは、慢性的な自分の感情に煩わされることは、自分に成りきっていっていないのでは。

 

感情は起こりという原動力にするものではないし、過程っていう手段にするものでもないし、結果っていう目的にするものでもない。

 

自分とは、感情も言動も含めたまるっとあるがままでしかない。自分をコントールする術が餌しかないってなんとも悲しくなかろうか。いや、確かにただするってなるまでには調整が大変だと思う。僕がもともと餌で動かない人だったから簡単に言っている。ただ、それなりに難しいところはあった。

 

ともあれ、まるっとあるがままっているのは、人間関係にも言えること。人の存在を肯定も否定もせずに受け入れることが関係の最終形態だと思う。ただ、これって下手すれば全然関係ないあかの他人へのどうでも良さと結果的に同じように見えなくもない。

 

ここの差異は、対象の存在が嬉しいとか楽しみであること。嬉しいとか楽しいは感情なのだろうけど、ここで言っているのは違う意味。やや感謝に近いのかなぁ。

 

相手の存在自体をありがたいと思えるかどうか。

 

では、良い夢を。