満足の後

雲にぼやける月の美しさ

 

キノコをサラダっぽくしたいと思いミニトマトと炒めて塩コショウとお酢で味付けして、ちぎったレタスの上に載せて、マヨネーズを少しと七味唐辛子。メインは炒めたアスパラが食べたかったから、豚肉と玉ねぎと炒めて、塩コショウとウスターソースで味付け。めんどくせーと思いながら作った。感情と行動を連結させないメリットの1つ。

 

デメリットは、言わずもがな。

 

さておき。昼間は粛々と頭の中を整理していた。もはや法律を勉強しているのか整理しているのかは不可分だけど、次の段階の為には客観的に必要なものだから不可分で良い。

 

法律の面白さは知識の先にある。というか、どんな面白さもだけど。

三段論法に基づいて社会ルールの最小限を追求するシンプルなものだけど、もともとの、ルーるとは何ぞやっていうのが思想だから、思想を把握する学問なのかもなと。思想っているのは、何故そのルールが創られているのかというところ。どんな法律にも目的がある。目的に適った結論でなければ整合性が保てないっていう。直感とは離れた結論になることも多いけど、それはそれで理由があるから、整理とは、その理由をすり合わせるということ。

 

でも三段論法自体は物事をシンプルに捉えられるとうのはある。まず、前提を定義づけて、現実はその前提に含まれるかを吟味する。で、その前提に含まれるのであれば、前提通りであると。

 

ただ、前提が外付けなのか自分で決めているかで全然違う。前提が自分由来だと自己責任だから、論法が自分に限定されるけど、外付け前提だと、論理が際限なく拡がるという。

 

人間は死すべきものである(大前提)

ソクラテスは人間である(小前提)

ソクラテスは死すべきものである(結論)

 

これが典型的な三段論法。

で、おそらくだいたいの人が普通に最低限やっているだろう考え方。

 

具体例がないと本当にそんな思考をしているのかというのが分からないだろうから、僕が今日考えた三段論法。

 

僕は毎晩お祈りで、僕以外の全宇宙が幸せでありますようにって願っているのだけど、これって最初は自分が幸せというものを求めていないっていうのが前提だった。僕には要らないから、必要な人へって。

 

つまり、ここでの幸せの定義とは、それぞれの願いもとい欲求ないし欲望がみたされることとにしていて、僕は特に世界に対する欲求ないしなぁと、

 

自分の願いが満たされることが幸せだ。僕は自分の願いが欠けている。よって、僕には幸せは要らない。という三段論法。

 

でも、前提の解釈が違うのはという発想で前提を再構成すると意味合いが変わる。

 

幸せを目的としてではなく状態を定義すると、この状態って十分だという世界への認識だろうなと。まぁ定義的にはあまり変わらないけど。十分じゃないから不幸せだから、十分を願うのだって。

 

十分な状態が幸せだ。僕はもう十分だ。よって自分は幸せだから、宇宙の幸せを願うのだ。

 

って書くと意味合いがやや変わる。

 

僕はもう全環境的に幸せだから、余剰を求める自分も俯瞰できるというだけ。

 

でも、努力とか思考は別問題。別に環境を変えるためにやっているのではないし、思考で幸せになることはない。とは言い切れないか。自分が不幸だと認識している人が自分の中身を観測することで幸せの定義は変わるかもしれないという意味では、環境自体が変わるかもというのはある。

 

自分が変われば勝手に環境が変わるっていうのは確かな現実的向上論だとは思うけど、自分の資源より社会が資源を割けよって言っているうちは何も変わらない。

 

僕は、今が十分だと感じていることと、自分を変えていこうとする欲求は別だなとすると自分が良く動くというだけ。自分が良く動く方法論は人それぞれだけど、他人を巻き込まないようにやって欲しいとは思う。

 

後段はもはや欲求ですらないけど、欲求としないと認識すらされないから一応そういう言葉を遣っている。内と外の話。

 

そうして、魂の進化論の本に対して思うこと。

 

僕は修行で高次の存在に逢うところまでいきたいとは思わなんなと読んでいるけど、このプロセスって、自分が当たり前になっている境界性を壊してくことで、ある意味、今でいう境界性なんたらみたいな精神疾患にあえて陥っていくことだろうなと。

 

これが良いかどうかは知らない。自己洞察ができれば良いじゃん、その先に何かメッセージを世界か得る様になるって自己洞察が錯綜しているのではとは思うけど、もともと人は他人に対して世界に対して不幸観が強くて煩悩がどうのこうのが前提だから、トランスは手段としては悪くない。

 

でも、結局は自分のあるがままとどう折り合いをつけるかどうかに尽きるような。

 

自分のあるがままに向き合うって、自分の矛盾とか怠惰にも寛容となることで、自分にとって自分が都合良くないことで出てきた感情を俯瞰することではなかろうか。これを全部できたらほんとの聖人だけど、感情は世界に投げるものではなくて相手に投げるものでは。

 

おしまい。