自分を決めるのは誰か

クシナダヒメの両親がヤマタノオロチよりスサノオを選んだのは、単に条件が良かったからだ。喰われるか犯されるか、搾取されることには変わりない。

 

「性食考」より。

 

 

昨日顆粒コンソメと顆粒中華だしを買ってきたから、味への飽きは少し解消した。ランチはバターでトマトとレタスをしんなりさせてコンソメウスターソースで味付けした卵丼

しじみの味噌汁(インスタント)。夜は鶏むね肉とピーマンニンジンを中華出しで味付けして、醤油で風味付け。味をつけるときは蒸発しないようにする。サラダはいつもの食材にパプリカの塩もみ。

 

料理というか食材についてふと思ったのだけど、好き嫌いがほとんどないから、何が食べたいかみたいな感情より、前日何を食べたのかとか、前日までに何が偏っているかを基準としていることが多い。これって、自分の過去を基準としているもので、自分が次に何を買うのかが過去を参照することである程度絞られる。給食の献立みたい傾向。

 

昔書いていた日記サイトのタイトルが、「偏らない」だったのを思いだした。僕は昔から均衡を求めていた。中庸とか言われたこともあったし、今風だと非対称が嫌だってことになるのか。まぁこれも理想論だけど。「点とは部分を持たない」と定義したのはユークリッドさん。頭の中にしかない。ただ、これには先があるのだろうなというのが、今思ったこと。

 

偏らないは自分を偏波なくする平均化だけど、その後には自在に偏ることができるということ。まぁ料理ではしないないけど、自分の中で選択肢を増やすことに他ならない。その先に自分の本当の傾向がある、ような。

 

つまり、偏らないことを志向しつつ、どこに依怙贔屓をするのかで自分を決める。

 

非対称性は、社会問題に使われることだけど社会が非対称なことは仕方がないと思う。自分の中の非対称がなくならないのに、人の総体がそうなるはずがないという意味で。どこまでバランスとっていくかっていうのも点の話だけど、追求することには意味があると思う。不満ではなく試行錯誤するなら。

 

さておき。

 

前日の日記を読み返してから書くようにしている。話題の重複があまりないようにってこれも傾向か。んまぁ、昨日の日記は我がながらなかなか面白かった。他人事みたいだけど、そんなもの。

 

 

ところで、パンプキンシザーズ、まだ完結していなかった。主人公の正義論はええなと思う。正義とは正しい偏見を追求することそのものを言うって。偏見は確かにあるしなくせない。偏見がなくならない限り差別はなくならないのが現実。偏見の根は恐怖だと思う。これって

物理的に生きていれば、当たり前の感覚で存在していればその瞬間空間を占有するし、専有が脅かされる可能性への不安はどうしようもない。ただ、これを攻撃に使わなきゃいけないのかっていう必然性に関しては難しいところ。あぁ依怙贔屓も偏見に違いない。これがあまり問題にならないのは、はた迷惑にならないから。

 

主人公は想い人からの告白に、公正であるためにその人だけに不公平を捧げるって言ったのだけど、ねじ曲がりながら誠実な関係だなと思った。

 

 

あと、作中の小説が面白くて。電話がない世界の代筆屋が主人公。識字率が低いから、人の発話メッセージを、手紙形式に変換して書き綴ることを生業としていた。発話のニュアンスも含めた言葉を媒介する職業。そうして、電話っていう技術の進歩が起こるのだけど、手紙自体には別の価値が生まれて仕事がなくなることはなかったけど、この主人公は気付く。

 

手紙しかなかった時代の手紙はなくなったのだ。

 

進歩は後戻りできないということ。携帯電話の便利さに慣れた人は、自分のメッセージを手紙にしたためることは選ばなくて、ただ、娯楽としての手紙は残るし、希少価値としてもそう。

 

ただ、社会が便利になったとしてもごくごくピンポイントな個人がそれにものさしを合わさなきゃいけないっていうことにはならないような。というのが素朴な感覚。

 

個人レベルでいうと、何かを知る前と後では同じ認識はもてないから、知らなくて良いこともあるのだっていう説がある。確かに、そういうこともあるかもしれないけど、僕は知らなくて良いなんてものは認めていない。

 

例えば情報が増えることで離れる関係があるとしたら、そこまでの関係でしかないっていうことだし、疎通の手段が楽になったからって疎通が深くなることもないし、そもそも、自分の何を基準としているのかだろう。その知る前の自分は何をもって自分としていたのかという話。

 

でも、こういうのは、他人を巻き込まずにするべきだと思う。と今自分の過去が走馬灯のように溢れているけど、僕は知る前より知った後の自分の方がマシだと思う。

 

まぁ特殊ではあると思う。

僕の文明への考え方って、あればあって良いし、なければなくても良いってくらい。唯一、この日記時間がなくなるのは困る。あったものがなくったことに対する執着はなかなか気持ち悪い。

 

こちとら通信文化が退化して、手紙なんかよりさらに昔の和歌を投げるけど読まれているかどうかすら分からないことで充分という精神性が自分にあったのかと再発掘しているし。

 

なんだろう。

 

これって要は、自分の歴史はなかったものにできないから、進歩があったとしても過去の自分はなくならないで良いのかな。どんなものも他責にしてはいけないし、まるっと自分を認識する。気持ち悪いししんどいけど。

 

っていうことができて初めて他人をまるっと認識できる感。

できたことないから知らんけど。

 

 

あとなんだっけ。

 

シュタイナーさんの神秘学はあまり食べられないけど、自分の思考を現実のものとして捉えるっていうのは分かる。体感って環境だから、環境に対する反応を自分をとしてしまうと、自分がブレる。思考が現実化するっていうのはマーフィーさんだけど、これも現実化しないと思考ではないみたいに読めなくもない。

 

ここの真意って、当人が考えたことは誰にも認められないだろうけど、あなたの一部ですよってことなのではって。これなら分かる。僕はバグっているからあんまり違和感ないけど。

 

 

最後。

 

自分を確定する作業って、素朴な感情もそうだけど、他人との境界線をきっちり決めるっていることではなかろうか。

 

おしまい。