誰でもない

                                                                                      

パプリカはミニトマトとマリネ。とりむねにくはゴーヤ炒め。ついでに冷奴。

 

 

自分の理解力のなさを実感するにつけ、自分の認識した世界は全部思い込みのとんちんかんかもしれないと思い至る。あまり調子が良くなかった。もっと理解できたかもしれないし、もっとスムーズに案内できたかもしれないし、と考え出すときりがない。たまたま良かったときと良くないときを都度自分の基準としていれば何にもならないのは分かるけど、分からなかったことを検証するのは意味があるとしておきたい。

 

理解の本質は、既知の分解ではなくて、未知の認識にある。

となると、直感とほぼ同質なのか。直観だと当たるかどうかは問題じゃないけど、理解は不足していても情報を増やして既知になることで双方通行になるというのはあるかもしれない。どちらも一方通行だと、対象からしたらとんちんかんということになりうる。

 

直観は自分の精神状態で良くも悪くもブレる。

 

そういえば、自分の要求を察するべきという言説と、いやいや察してちゃんは甘えだろう、自分の要求はちゃんと言葉にすべきというのを見かけた。僕はどっちも極論という説。というか他人に要求をするところをなくしていこうという求道者みたいな、まぁいいや。

 

察するべきだっていう人は、自分が察するように洞察したら良いし、言葉が大事な人は非言語も見ればいい。どちらかというと言葉で疎通すべきという人のがまともだと思うけど、これって、言葉が発せられない人は、何も意思表示していないということになりかねなさそうな。んまぁ、言葉だけの世界の話だから、より住民らしいのは後者。

 

ただ、現実でもそう振る舞っているとすれば、世界からいっぱい何かが零れ落ちている気がする。んまぁ住んでいる層が違うに違いない。そうして、察してくれという感覚だけを言語化するとなんとも滑稽になる。なんでかって察することには当然自分の要求に従った言動が含まれるから。

 

僕が言う理解には、察することも含まれる。ただ、察したからと言って相手の要求通りに言動できるかは分からないという二段階。自分の言動に関しては好き勝手やるから、おかしなことになる。

 

 

なんだっけ。自己分析の話だっけ。

 

 

ところで、理解と解釈の違いはなんだろう。認識も含めて、自分のブラックボックスからの世界の捉え方みたいな気がするけど、どういう風に分かれているのだろう。解釈はなんとなく恣意的な感じがする。法解釈も法の中で、諸々の文言が法的にどんな意味を持つのかを明らかにする作業だし。何か限定した中の思考の試行なのかも。

 

どれも客体があるものであるのは共通なのか。

現状では立ち入ってはいけない領域なのかもしれない。言葉が出てこないのはそういうこと。頭の中が絵具の混ざり合いみたいなことになる。

 

 

そうして、察してちゃんと言語表示の対立に戻ってくるけど、僕は自分の言語表示が本当に自分が求めているものなのかっていうところに疑問がある。と同じくらいに自分の表層的非言語も疑っている。でも、別に自分自身を疑っている訳ではない、という矛盾。

 

要求していないっていうメッセージを投げることで何を求めているのかとか、おだやかそうな非言語メッセージはどうかとか。別に何かそこに鬱々としたものがある訳ではなく、うつろだろうなと思うのだけど。

 

僕が疑っているのは、自分の世界に対する理解とか認識とかであって、ここで自己完結する分には、一番自分に近いかなと思う。たまたま誰かの為になれば良い。誰かが僕の幸せを祈るならば、それは他の人に投げたら良いのにって思いながら、それでも在れば嬉しい。

 

ただ、これもループはする。

ほんとはなんなのだって。

 

こんな人格本当に在るのだろうか、でもそういう傾向になればなるほど楽しい。

でも、この楽しさうれしさとは。

 

 

だからだけど、僕は人の言葉も行動もあまり認識の前提としなくなってきている。態度みたいな分かりやすい非言語ではなくて、行間みたいなものを見ようとしている。つまり、自分に関係している相手は、自分の認識では捉えきれないということ。

 

あと、直感に従うか、自分がまともだと認識している一般論的観念に従うかみたいなせめぎ合い。

 

直観はだいたい正しいのだけど、何か感情が入り込むととたんにポンコツだから、これを正しくするためには座禅の平常心が必要だけど、面白いものは面白いし、嬉しければ嬉しいし、負の感情より正の感情の方がここではノイズになるというジレンマ。

 

あとは、自分がみたされているときに、自分だけがみたされて良いのかっていう抑制が働くバランス精神。これを従来は精神的恒常性と捉えていた。みたされていないことが常態だから、何かいいことが連続したら、みたされていないところに戻すという恒温動物のさがと。

 

でも、いまや良い感じのときの方が常態だから、この説明はおかしい。

 

続きはまた。

 

では、おやすみなさい。