静かに寂しく

予定通り布団に入ったけど、漫画読んでいたらなかなか寝付けなかった。今日は改善しよう。朝日が痛くならない程度には寝たいところ。睡眠コストはなかなか返済できない。日々に積もった何かを片付けるためにまとまった作業をしないといけないのは、そのコストを払っていなかった過去の自分のツケを返すもの。どこかで払わきゃならないのに、だいたい先延ばしになる。僕は個人的にはあまり気にはしていない。自分の性質はなんとなく把握しているから、しょうがないなという感じ。

 

さて、思考量はあまり変わらないけどあんまり残らない。やはりまとめて言語しようと意志しないと、心象世界も風景とあまり変わらない。車窓に流れる景色は好きだから問題ないけれど。特に何かが深化する訳でもなし。とは言い切れないか。

 

神秘修行では健康な心身であることに努めなければいけないらしい。でも、健康とされていることというより自分が健康であることだから、一般的な禁欲とか節制とはニュアンスが異なるみたい。快楽に興じるのがいけないのであって、ここの基準も自分次第ということ。健康であることが快楽になってもよろしくない。まぁ僕はそんなに健康でも健全でもないけど。

 

あぁ、今日考えていたのは人との縁というか関係のような漠然とした交わりについて。近い性質とか考え方の項目が多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない。どちらかというと少ない方がうまくいくのではないかという風景。僕はこれからどういう人と縁ができるのだろうって考えてみると、どうもうまくいかない。そりゃあそうか。

 

あとはなんだろう。井原西鶴さんがでてきたのだけど、大変なバイタリティを持っていた天災なのだろうなと。好色一代男くらいは知っていたけど、一昼夜で24000首の句を創作したとか。さすがに盛っているのではなかろうかとは思うけれど、凄いことには変わりない。

 

できることは増えているし面白いし、なんとなれば自分が生きていて良いかなんてどうでも良いことだとしているけれど、何かが足りない気がする。人でもなく物でもなく、じゃあ何だろう。やっぱり眠らないとダメだな。

 

過去の自分のコストみたいなことを冒頭に書いたけれど、外的な作業と処理とかはそれで良いけれど、人格に関してはそうはいかない。自分を認識することは認識しているその瞬間だけだけど、そこには過去の自分も混じっているし、未来の自分も含まれている。だからと言って、何をどうするかという話でもないけど、なんとなく自分というものが得体の知れないものに見えてくるなぁ、というだけ。

 

よし。

 

とりあえず、静寂の中でも残るものが自分の本質だとしておく。

 

 

では。

 

おやすみなさい。