決めつけ

少しすずしげ。夏の終わりをほのかに感じる。それよりも、お昼ご飯を食べて雨上がりの公園を歩いていると赤、いや赤紫の見知らぬ花びらが地面に散乱している。見上げると、見知らぬ花と見知った幹の組み合わせ。サルスベリの花ってこんなに綺麗だったのか。実家にあったのに幹しか見えてなかったみたい。金木犀なら存在感があるから花を愛でる感情が芽生えてなくても分かるのだけど。漢字表記だと百日紅みたい。名と体が一致している。字面も艶やか。

 

木登り上手なサルすら滑るくらい幹が滑らかなことが語源だっていう幼少期の第一情報だったから、あんなに鮮やかな花でも、今まで存在していなかった。

 

世界とはそんなもの。

 

さておき。

 

同期とベテランさんの会話が聞こえてきた。

ベテラン「週末は1人でお酒が飲みたくなる、でも1本だけ」

同期「良いですねー私は1人では飲みません!(強調) 大人ですね!(強調)」

 

年齢を表記した方が分かり易きだけど、無粋だからやめておく。

 

それよりも思ったのが、「大人」という観念のこと。

大人と表現したということは、同期が自分のことを子供と思っているかはともかく、大人の観念がアルコールを嗜むかどうかに左右されていることを含んでいるらしいということは分かる。高知県民だから分からないでもないけど、何かありそう。これも無粋。

 

 

大人の観念って、様々な文脈で使われるけど、玉虫色の言葉でしかないなぁとこの会話を聞いて考えた。これって一種の強迫観念でしかない。

 

どこから強迫されるかというと、世界から収集した観念を参考にした自分。本当は大人と子供の区分なんてあってないようなもので、その基準は勝手に個々人が勝手に決めているだけ。自分が大人だから子供を見下げて良いみたいなものさしに使っているような気がしないでもない。

 

ここでややこしいのは、未成年と成人の法的区分け。これがあるから、成人越えていると自分が大人であるみたいな外付けの大人観が生まれるところ。だからかは分からないけど、自分より年少者は見下して良いっていうことになる。つまり、振る舞いを年下と年上で変えるのが大人なのかと。

 

本当の大人が在るとすればそれはこの区分の呪縛から解放されている人だと思う。

という意味で、今の職場はかなり心地が良い。個人を独立した存在とみなして、他人も個人として見ることができるのが大人であって、自分が大人だから子供を保護しなきゃならないとか導かねばみたいな観念は、物理的な子供でない限りなかなかどうなのだろう。

 

なんでもいいけど、実生活というか当人の世界で、この観念って要らない。

これから離れても、ちゃんとする部分はすれば良いし、しなくても良いならしなくて良い。

 

びっくらこいたのが、子供の権利を守らなきゃいけないっていう奉仕精神満載の人に、ある人が、子供とは何ですかって聞かれた時に、児童に関する権利条約をもってきて定義したところ。いや、分かるけど、そんなざっくりした区切りで良いのかって素朴な僕は思った。

 

気になるなら、大人とか子供とか、外付けの定義じゃなくて、自分の定義で自分の大人の部分と子供部分を区分けしてみると良いと思う。

 

僕はマジックワードで人を区切るのは辞めているから、大人とか子供とかは知らない。あえて言うなら、生活習慣ではなくて、何かの不利益を他罰的にするのが子供で、自分がどうするかを試行錯誤するのが大人か。どうでも良いと思うのは修行している人。

 

利益でいうなら、当たり前と思うのが子供かなぁ。別になんでもいい。

 

 

ところで。

 

今日仕事の時に、客の質問には適切に答えられたけど、ちょっと違和感があって調べてこれは不都合なのではなかろうかってまっさんに聞いたら、それは親切心の範疇だから、修正させたいのであればやれば良いって。

 

僕が個人事業主であれば自由に決めても良いけど、労働者である以上、対価がないところのサービスを提供してそれが当たり前になったときの負担って自分以外に回るだろうなと思ってやらなかった。大人と子供の区分が本当にあるとしたら、この基準は参考にできそう。

 

サポート対象外はあくまで任意でやっているのであって、その任意の好意が当たり前にあるとしてしまえば、対価関係が釣り合わなくなる。というのは何処にでもある話。

 

 

戻ってきて。

 

リスクとリターンを考慮できるのが大人という観念もある。

 

なんとなくそれっぽい話だけど、僕は全然違うと思っている。

これって要は、対価がなければ動かないっていう前提があって、お菓子くれなきゃ動かない子供と同じじゃないか、対象が変わっただけで根っこは全然変わっていない。

 

違う?

 

ここは結構面白い話。

 

対価っていうと生生しいから、打てば響くみたいな相性の良さにしてみる。

 

第一印象の相性が良いって、お互いが外用の時に気遣ういわば余所行きでコーディネートされた関係でしかない、訳でもないけど、まともな人は自分のことは良く見せようとするから、ハードル上げて自分を見せる。まぁ、刹那的な交尾とか結婚が最終目的であればそれで良いかも。ただ、その先はコストが返ってくる。このコストは相手じゃなくて自分のもの。

 

 

もう1つところで。

 

昨日はちゃんと寝られたのだけど、起きたあと何をするか決めておかないと無限の工程の中で何を選ぶか分からないから結局何もできないという。

 

じゃなくて。

 

夢。

 

中学時代の同級生がいっぱい出てきた。全然いい夢ではない。

僕のトラウマというか最初に植え付けられた観念がこの辺りだから。これを拭うためにどれだけかかったか。今会いたいと思う人いないからなぁ。

 

どんな個別的な集団であっても、社会の縮図。

 

僕は人間不信傾向はある。

 

でも、この不信って、相手の言動をそのまま受け取られないっていうだけであって、攻撃には向かわないもの。

 

 

そうして、僕とは何ぞやみたいなみたいな話。

 

 

神秘学の修行の本は、割と当たり前に読めるところだった。

 

例えば、犯罪した人と自分は環境のたまたまの紙一重でしかないとか。

自分は犯罪者でないことを基準として人は人をやたらと責めるけど、なんで自分が清浄だと思える不思議。自分が汚くなかったことがない人なんていないと思うけど。あぁだから攻撃できるのか。

 

ここはどうでも良かった。

 

自分の思考や感情が自分の行動と同等に世界に影響しているっていう捉え方。

 

これは良き。

 

 

僕の中では結構当たり前の話で、全宇宙の幸せをお祈りしているはずなのに、いちいち日常が都合良くて困る。

 

ほんとに生生しい実感として、おかしい。

 

世界の話だけど、自分の思考と感情が世界の一部だっていうのは良いけど、これって自業自得の世界に等しい。

 

シュタイナーさん的には自分が怒ったらその対象にそれくらいの影響があるって言っていたけど、これじゃあ分かりにくい。

 

本当は、自分が負の感情を発生させたら、ピンポイントで自分に返ってくるでいいかと。

誰かに投げたらそれはブーメランの前に自分を攻撃している。でその攻撃の主体は蓄積した固定観念だったり。

 

 

おしまい。

 

良い夢を!