何処かの誰かが

土日のリズムと平日のリズム。

 

理性とは、みずからが自主的にはそれであるものへと、じぶんをかたちづくったものなのだ。

 

― 精神現象学上 ヘーゲル ―

 

だとすれば、よくもまぁめんどくさく創ったものだ。

でもこの理性のモデルって自分の時系列を遡ってもどうも見当たらない。まぁこれは無理もないとは言える。影響範囲をなるべく閉じるのが良いのは、行動原理とか思想からすれば自然ではある。

 

でも、ここの本質は、理性が自分で創ったものであるのならば、再構築することもできるということ。そんなことやっている人はあまり見かけないけど、理論的にはできるというだけ。

 

ただ、自分が自分の理性としている概念と、当人の本当の理性がどれくらい重なっているかは定かではない。

 

昨日の僕は良く言ったと思う。

 

さておき。

 

刑法の話。

 

犯罪が犯罪たるためには原則として故意が必要なのだけど、恋みたいな感じで読んでいた。

 

一般的な故意ってわざとだろうけど、何をもってわざとするか。日常的な故意が問題になるとき、知っているかどうかはあんまり問題とされない。刑法上の結果無価値論の考え方だけど、もっとひどい。

 

刑法が優しいなって思うのは、当人がどこまで認識していたかを問題にしているところ。僕は刑法の故意論はどうも分からなかったのだけど、素朴に考えると、第三者が人を罰するときの最低条件として、どこまで認識していたかを問題にする。

 

あんまりここを細かく書いてもしょうがないけど。

 

 

素朴な関係において認識っていうのは大事なこと。

あなたは僕のことをどこまで認識していますか。

 

そうして、認識しようとする行為は原則として破壊的。知りたいっていう欲求は搾取とまぁまぁ近い。知りたいを現実化することは抑制しなきゃならぬ。

 

ところで。

 

昨日書いていた、思考と感情を現実のものにするっているのは、負の方向の話だった。誰かに怒りを感じた時に、その怒りの感情はその相手を殴っているのと同じことだって。

だからやめろって教示されても、怒りは世界のせいだって理性を構築している人には何の意味も持たない。

 

大人だとすれば、怒りは要求だって分かるはずで、要求を現実化することにおいて怒りは悪手でしかないっていうのもきっと知っているはず。

それでも怒らずにはいられないとすれば、要求を現実化することではなく、要求している自分に価値を置いているということにしかならん。

 

 

僕の人格世界だとほとんど怒りはない。

 

諸々の日常で、三人組の女性はたらたら歩いて世界が閉じているけど、ここは公共世界やでってイライラはするけど、人が人にとって一番ノイズになるのは分かっているから。これは時空椅子取りゲームの話。

 

つまり、人にとって僕はノイズでしかないっていう理性。

 

 

やれやれ。

 

でも、思考と感情が自分の手の動きと変わらないっていうのは、正の方向でも同じということ。

 

想い人のことを好きだっていうことから派生した空想は僕だけのものであって、現実化してはいけない。もう十分。この胸の苦しさをくれただけでありがたい。上記と組み合わせると、ノイズにならない範疇で好きでいさせてくれたらそれでもういっぱいいっぱい。

 

この傲慢が訂正されることはあるのかどうか分からないけど、僕は人に好かれる性質があるにもかかわらず、ピンポイントで好かれたくない。何故ならなんにも返せないから。

 

好かれたいと思いながら好かれたくないって振る舞う自分の矛盾よ。

どっちにしろたまたまでしかない。

 

内と外。

 

想い人への好きは、現実の想い人へ向かわなくても十分たまたまの感謝。

感謝が大事だっていうシュタイナーさんの言は確かにと思う。

 

感謝の概念が良いのは、対価ではないこと。返って来ないことはなんの問題にもならない。

 

 

 

おやすみなさい。