規範

 

やっとこさ、休みの日の自分をコントロールできるようになってきた。これは3リットルビールを飲んだ次の日かどうかは関係ない。外圧でコントロールできるなんて当たり前の話であって、そんなの誇ってもしょうがない。

 

でも、自分がコントールしているかコントロールされているかっていう捉え方の違いは、肉体に返ってくる痛みという意味では全然変わってくる。外圧のせいにしていると、身体疾患として自分に返ってくるらしい。

 

でもなくて。

 

法律学の話。

 

今日は刑事訴訟法を読んでいたのだけど、刑事系の学問は一種の発明だったのだろうなと思った。社会的な処罰感情と実際の罰の分離。私刑を禁止するって、かなり文明が発展しないと成り立たない。私刑に戻りたい人も一定数居るみたいだけど。強姦罪の無罪判決を廃止するとか。

 

個人の感情で司法が積み上げてきた時間を殺すことだけど、主観的に生きている人にはあんまり関係ないみたい。自分の感情さえ慰撫されたらいいって社会を見るなら、他の誰かの慰撫の為に自分が殺されることも肯定しないといけない。

 

例えば、伝聞証拠。

 

人は伝聞をたやすく信じてしまうっていう教訓から、刑事裁判では原則伝聞の証言を証拠としていない。これは素朴に考えると当たり前だけど、伝聞を真実とすることが当たり前の方が上位なのか。

 

まず、ニュースを真実と捉えること自体がおかしい。権威がある機関が発したこと真実として生きるのは当人の勝手だけど、報道は事実を伝えるところから随分離れているし。

 

二次情報ばかり。んで、裁判に関する報道でも、被告人の属性をことさら誇張するわけで。

 

報道が保障されていたのは、為政者が公知させている事実を覆す新たな情報を提供する機能があったからであって、今やとくに見るに値しない。一次情報だったらつぶやき場の方が早いし確実。

 

刑事裁判に対する報道を信用している人が多すぎる。

 

刑事裁判って、全く関係ない人からしたら犯罪者を罰するための手続きで、逮捕された事実だけで犯罪者のレッテルを貼ることができるし、報道で出てきたストーリーが、検察官が主張する事実のなのか弁護人が主張するストーリーなのかは関係ない。

 

報道がどのストーリーを選ぶかを選択できる時点で、事実を報道している訳ではない。

 

判決は、言葉だけでは選べない。ストーリーには証拠が必要で、証拠がなければどれだけ可哀そうな物語を主張しても、採用はできない機関が裁判所。

 

素朴な感覚として、伝聞ですら真実にしてしまうのは分からんでもない。僕も人の発言は基本的に肯定するけど、これは、当人が僕に対して発言したことに限定されている。伝聞に関しては拙い時に随分痛い目みたからなぁ。

 

で、これを翻すと、僕も言葉としては綺麗めなことばかりを取り上げていて、自分の汚いことは書いていないという。これは書いても詰まらないだろうっていう方向性もあるけれど。

 

 

自己肯定感も自己否定感もどうでも良いけど、とりあえずまずは自分を見ましょうかという話。

 

当人、どっちも全開だからこれのどちらかを前提とした言葉はどっちも面白くない。

 

随分耐性ついたものだ。

 

 

耐性っていうのは、無駄に共感しすぎないこと。

 

これが完全な個人しゅぎだと思っているけど、完全には求めていない人が大多数だからややこしい。

 

本当に個人で在ることなんてだれも求めていないという説。

この仮説を覆す個体は観測できていないから、在れば希少だと、思う。

 

 

おやすみなさい。