信仰みたいな幻想(後)

 

 

どうでも良いけど、1人カラオケに行きたい衝動に駆られている。声の出し方で、地声と裏声の間の高さを発見して、これにマイクを通したらちゃんと歌になっているのかなって。声には限界があるっていうのは一般的な見解だけど、んなことはないような気がする。僕の地声って、外に発しているよりは高い。どうでも良い話。 

 

声色論は試行したい思考として残している。

 

 

 

言葉の定義を気にする人でも、一般的な言葉はなんとなく当たり前に使っていることが気になっている。確かに言葉の共通定義って大事だけど、これが何のためにあるかって、基本的には交信とか伝達にしかない。

 

でもなくて、言葉を丸っと受け入れる人とか、言葉だけで相手に伝わっていると思い込める人って、言葉教みたいな宗教に入信しているのではないか。

 

これは人それぞれで難しいけど、結局は、どう伝わるかはさておき、自分が遣う言葉くらいは自分で再構成してないとあんまり重みがないということ。てきとーに言葉を扱ってもいいけど、僕は少なくなくと、個別的な関係でそんなことはできない。

 

細かい話だけど、僕の好きと相手の好きの定義が違うとき、私のこと好きだよね?聞かれたとき、厳密には違うけど、まぁそう言っとこうかみたいになって応えた自分の言葉は、自分のものではない。

 

でも、こんな細かい定義なんて説明したところでしょうがないと思っている。分かって欲しいでもないし、分かってしまっても先がない。

 

言葉が一義的な人ほど言葉に影響を受けられる。

 

 

ところで。

太宰さんの人間失格が愛読書だっていう人と話をしていて、太宰さんに対して思うところ。僕としては、太宰さんの文章は全然残っていない。いっぱい読んでいるけど、当たり前過ぎて、自分の人格にするする通り過ぎる。

仮面の話って、たぶんまともに生きている人からすれば、自己と社会の隔絶なんて当たり前で、そこに適用できなかった太宰はおかしいとしか読み取れないと思う。

 

でも、これって僕からすると自分の人格に対して特に疑義が無く生きられる人は自他の境界ってあんまり考えなくて良かっただろうなとしか思わない。自分が薄いんだよ。欲望とか怒りって基本的には社会への不自由だから。

 

素朴な自分の価値観と、社会的に纏わなきゃならない仮面が乖離することが把握できれば適切に読めるかと。太宰さんは世界に対して怒ってなかったし。

 

 

学問は道しるべだっていうフレーズを見かけた。

 

けど、僕はこれにも賛同できない。学問に自分を見出そうと思う思想は、学問をご都合主義に使っていると思う。厳密には、学問は自分を発見する道具でしかない。

 

どんな情報も標にはならない。

情報を起点として自分を見つけるだけ。

 

自分なんて自明だってしている人がほぼほぼだけど、自分が自明じゃない僕からすると。あなたの自分の定義はほんとうにそぼくな自分なのかって聞きたくなる。

 

聞けたことないけど、ほのめかした時には、だいたい自分の判断基準は自分の歴史を前提としている模様。

 

おしまい。