なんとなく哲学

 

ひと息で5時間が睡眠時間の最大値なのかもしれない。夢は何か暴力性の話。グロテスクではないけど、なんというか素朴な子供のもの。無邪気に内包された力。これを考え出すと、なかなか坩堝に入るし自分の暴力性にも向き合わなきゃならい。

 

僕から考え事を取ったら僕ではなくなるのかどうか。みたいな命題に近い。

 

 

今日は連休明けの仕事だったけど、なかなか滞りなく。やっぱり問題が解決した後の人の嬉しそうな声色というのは良き。最初無愛想っぽい感じの声が最後にぱぁってなるのとか。僕は声にそこまで色が付けられないから申し訳ないのだけど。僕の声聞いていても共鳴できないし癒されもしないだろうなと。表現力不足。精進。

 

後輩はあまり良くない人に当たったらしく、しばらく毒を吐いていた。先生が宥めていたけど。気にしなくて良いですよ、ってやや呆れ気味に。毒を吐かずには居られない事象に関する考察もある。これって自己肯定感も自己否定感も原動力になるけれど、別にすっきりはしないだろうだなというイメージ。まず吐くためには聞き手が必須っていうのがなかなか。まぁありうる依存傾向ではある。こういうことを考えるから、感情的表現力不足なのである。

 

感受性がなければ夏目漱石の「それから」の終盤で息が詰まったりしないのだろうけど、感能性が不足しまくっているから。自分の感情なんて伝えるものではない。恥ずかしや。

 

 

ところで。

 

正しいこととは何ぞや。

 

僕は正しいとか、常識とか、道徳とか、倫理っていう言葉は言葉として好きじゃない。輪廻転生が本当にあるのなら、僕は前世でこういう漠然とした観念に虐げられた人なのかもしれない。ついでに言うと輪廻転生も信じていないけど。

 

こういうのって確かに歴史で培った集合知だと思うけど、個人的に見たとき、この言葉達を遣う人って、自分の素朴な感覚がこれに一致しているから乗っかっているように見える。わきまえていなければならないこと、従わないことの総体を一言に表現するという意味では便利だけど、この便利に乗っかって思考を放棄していることを公言している。

 

つまり、自分の素朴な感覚から離れている人を排除するために借れる虎だということ。

 

法律も集合知だけど、違いは自制があること。かなり強力な力を持っていることの反動だけど、人が素朴な感覚で拡大的に使えるような概念ではない。まぁ、公序良俗とか公共の福祉とか都合よく使えそうな道具はあるけど、結局は当人がコストを払わないと判断は仰げないから、言ったところでという感。

 

あと、作法もまぁまぁ良い。これも集合知だけど、限定された領域という意味の自制がある。

てきとーに使う人もいるけど、そんな人はどこにでも。

 

 

そうして、正しいに限定。

正しいでしか表現できないことはきっとほとんど存在しない。適切だとか、適合するとか、デメリットがより少ないとか、このケースではこれこれこういう事情があってたまたま結果オーライだったとか、

 

正しいって強い言葉だから、人に使うのは止めておいた方が良い。あえて使うなら自分に対してだけど、自分を正しいって言葉で評価しようとするのはなかなか苦行というか聖人というか、大変なことは想像できる。ひるがえすと、正しいも含めた大きな言葉を遣える人って自分に対する考察はおそろかにしているのだろうなってこと。

 

大義名分を語って何かさせようとする人のことは何も信じなくていいと思う。あくまで主観だけど。

 

最初に戻ってくると、人の社会ってサイクルしていてもともと持っている暴力性ないし攻撃性をいかに制限して統治するかっていうところがテーマになっている。歴史とか法哲学の話だけど、自分も含めた人間には生来攻撃性が備わっているっていうこと。攻撃性というと暴力とか誹謗中傷とかの積極的なものが思い浮かぶけど、本当は、自己保存とか自己防衛が根っこだと思う。攻撃は最大の防御みたいなもので、この攻撃性はないものにはできない。

 

ないものにできているっていう認識ができているのであれば、政治の成功なのかな。知らんけど。

 

だからなんだっていう話だけど、突き詰めていくと、自分がここまで生きていること自体が攻撃性の証なのだろうなと。別にこの観念を皆持てということではない。むしろ持つ必要は全くない。

 

僕は正しくないし優しくもないし、社会に何も貢献していないけど、別にこれで自分の存在に対する認知が崩れるわけでもない。肯定も否定もしない自分が存在しているというだけ。

 

もっと好きにやれば良いけど、好きにやるっていうことは、自分を肯定的にも否定的にも支えてきた柱を爆破することに等しい。宇宙空間。

 

基準が本当に何も参考にできない自分だけになったとき、何を支えにできるか。

 

 

こういうことを考えていると、遺伝でも環境でもない自分のある部分はどこから来ているのだろうと思わなくもない。これが輪廻だったら嫌なのは、この自分はめんどくさすぎるから今回だけで良いわって思うから。

 

 

おしまい。

 

皆さんつつがなくほどほどに満たされますように。