個人って誰よ

絶賛筋肉痛中(発話したら絶対噛む。

スニーカーでゆっくり歩けば何でもないけど、革靴で時間に追われて歩くと使う筋肉が違う模様。太ももとかふくらはぎではなくて、臀部がやや痛んでいて、一番痛がっているのはふくらはぎの反対にある、足の甲を引き上げる時に使う薄っすい筋肉。革靴重くて済まぬ。

 

まぁ、体の痛みがすぐ返ってくるのはまだ健全。ここの時間差が老化と言われているけど、おそらくそういう話ではないと思っている。いや意識と肉体の乖離がすなわち老化だというならあるいは。肉体と意識は未分離だけど、意識の方が強いから肉体をおろそかにするという意味では、存在するのが当たり前になって革命が起こる熟年夫婦離婚みたい。

 

僕は外から見れば肉体的不摂生満載と健康至上満載のアンバランスだと見えるはず。

アルコールも満載だし、たばこも吸うけど、ご飯は自炊で野菜たっぷり食べているとか、歩くの好きだとか。

 

前者の方向性では、僕は依存症だと評される。もっと体を大事にしろよって。

そもそも体を大事にするとはっていうことから。まぁ良いや。これで本当に体に害が蓄積されたことが原因ですってなったら承服しよう。体への観察は結構逐一している。

 

僕はたばこより、糖質とか脂質の取り過ぎの方が悪いと思っているし。

世の中で害がないとされているからって、自分の体にとって悪いかどうかは分からない。

息が切れるとか、苦しいとか全くないし、むしろ声帯は仕事のおかげで活発化している。

 

時々変な気道の縛りはあるけど、これは自律神経の範疇。自律神経の方は、外より内が良くなかった。

 

ともあれ。

 

今日の夢で覚えているのは、やたらと説教されたシーン。

前の職場の別に教育してくれた人でもない、法律事務所の経理主任みたいな人。

 

なんだかいっぱいの文字数でやたら、これはこうだあれはああだみたいなことをもりもり

と言ってくるのだけど、なんも響かんなっていうだけ。法律事務所の事務は職場として歴代一番しんどかった。これ、皆が個人として確立しているのは良いけど、新規参入が入る余地が全然ない、村上春樹の世界の終わりみたいなところだった。僕にスキルが備わっていたと仮定しても、あそこで長くは働けない。同じことをしても人によって評価違うのはどうしようもない。示しがつかんだろうって。

 

でも、これって、素朴な世界観とあんまり変わらないよなって。

 

今の職場は全然違う。同期は色んな意味で可愛がられているけど、これも人格じゃなくて能力だし、最終的な非をちゃんと上司が負ってくれるのは凄い。自分の非ですって上司が部下に謝ることができる仕事場も素朴な世界もなかなかないだろうなと。これはある意味感情と仕事を分業している訳で、嫌みも全くないというは、誰の思想なのだろうって思う。

 

というところで、どうでも良いけど、消費税の計算式を同期と入電の合間に話していて、私xとか嫌いなんですよって言っていて、僕も同期に即答できなかったから、家に帰ってから残業的に少し考えたのだけど、同期が納得できそうな説明の道筋を発見したから、休み明けの憂鬱を覆すような楽しみがあって嬉しみ。

 

同期が分かるようにこの計算式を説明するにはっていうのは、同期も人に聞かれた時にどうやって説明すれば良いか分からんって言っていたから、同期が人に説明できるように教えたいなって。

 

あと、ストレス耐性ありそうだけど、ストレス耐性って主観だから、なんとなく気になる。

先生はそんなに言わないけど、まっさんが言っているのは、ちゃんと聞くだけで良いから考える時間は上司に投げれば良いよって言っているだけだろうって。一回ご飯行った方が良いかな。

 

僕をモデルとしているような気がしないでもないけど、僕はモデルにしてはいけないとも言った方が良さげ。僕は仕事っていう拘束時間内に、自分に返せるものは何かって楽しんでいる奴だから、仕事はしんどい強制された時間だっていうモデルにはならない。

 

返ってくるものとしては、人の発言なんてそんなに信じなくて良いのだろうなっていう教訓。というより、信じるか信じないかは自分で決める領域でしかない。

 

例えば僕がお祈りしていることを信じる人は、僕の言葉の何をもって信じているのだろうって。証拠なんて出せないけども、嬉しいと思ってくれることは嬉しい。ほんとに、栄養源。

 

でも、日常では、発言すると裏付ける証拠が必要だったりする。

証拠って言ったってたかが知れているし、物証しか信じないならその人も物証しか信じてもらえないだろうなぁと。

 

 

まぁ、これって、言葉自体を無限定に信じてしまうことのおかしさも含まれているのだけど。

他人の言葉も証拠にはできる訳で。

 

 

ところで、歴史学の本を読んでいると、社会って一向に進化してないなって思う。だから生きていられるというのもあるのだろうけど、表現の自由と関連すると思うところがある。

 

表現の自由って、基本的には、国から統制されない表現をできることにある。どれだけ自分に気持ち悪くても、気持ち悪さだけでは人の表現は制限できないようにしましょうっていう理念。

 

 

表現の自由が良かったなと思うのは、個人的な視界で見ると自分にとって気持ち悪い表現を見て、そういう表現はしないように思えることでは。それに迎合している表現しかできないなら、まぁ良いか。

 

僕はこれだけ文字を綴っていても読み手思考だから、あらゆる評価があることはこの時代に生まれて良かったと思う。

 

そうして、日付的に今日だけど、遠出する予定。

 

ではおやすみなさい。