思考の坩堝

避難所

承認欲求

 

 

、というフィクション(かもしれない。

 

 

終電間際の最寄り駅の、男女が目の前で、ちょっとした交渉を繰り広げていた。終電のアナウンスをBGMとして、終電だってと言いながら強めに手を引く男。いつもそんななんですか、と満更でもでもない女。いつもは拒否るからと頓珍漢な男。寄り添ってコンビニでアイスを買っていた。あり触れた喜劇だけどこの後の展開は明らかで、雄雌臭が半端なくてなんだかげんなりした。男女の1組なのか、雄雌の番なのか。

 

 

さておき。

 

今日は考える日ではなくて感じる日。予定はちゃんと確定しないと、自分がブレる。自分がブレると、人に与える印象もブレる。多分、お祈りしていると宣ったところで誰も信じないだろう。結局、自分の約束を守ることは等身大の自分を維持する行為に等しい。

 

ということで、山口に行ってきた。広島までは新幹線で行ったことはあるけど、それより向こうは初めて。鳥取島根とはルートが違う。

 

僕はほんとに流れる景色が好きだ。慣れないだて眼鏡から車窓の外を眺めていて、眼鏡のフレームに括られた世界さらに車窓というフレームで括った世界が流れているのだなぁ、そうしてこれを言語というフレームでフォーカスしたのが僕の日記だとすると、三次情報だけど、僕の言葉を好ましいいと思ってくれる人は、その辺りは了承済みなような気がする。

 

結局考えている訳だけど、人がなにかの表現に触れた瞬間に感じる一次情報は大事なものだと思う。それを表現するかどうかは別として。僕は一次情報は無闇に言語化するものではないと思っているから、言語でフィルターかけている感はある。画像だとダイレクトになるし。

 

あと、人が世界に触れた後の、その物ごとに対する表現って、世界の情報というより、その人の思考形式を知るという意味での情報だと思う。世界のことを書いているようで、自分のことを書いているだけ。だけという表現は不適切で、本当は、これがその人の固有性ということ。

 

攻撃しなきゃならない物事があるって社会正義で頑張っている人達がいるけど、これって攻撃しないといけない事象っていう客観的事実ではなくて、主観的に自分がそう観測するように調整されているだけだろうと。

 

これってかなり大事なことで、生きずらいと感じたとき自分が何を感受できているのを観測してみた方がいいような気がする。これって運命論の話じゃなくて、どこかからの影響の可能性がある。どうしても悔しい、怒らずにはいられないっていうのも分かるけど、この感情自体が相対的なものだし。

 

絶対的な怒りがあったとして、もし本当にあるのであれば、他人にそれを投げたりはできないと思う。僕は結構絶対的悔しさとか感じる。こんなこんなことポカするかよ、みたいな。でも、これって同じポカをする人とは全く関係ない独立した感情だから、投げる発想自体がない。

 

同じような経験を受けた人が一緒に怒ってくれたから救われたっていう言葉を見るけど、それは一緒に怒ってくれたわけじゃなくて、その相手の怒りとたまたま一致しただけじゃないかと思う。

 

 

 

やれやれ。

 

新幹線の車窓から。

 

僕は森育ちだから、景色に自然の比率が高くなればなるほど元気が出る。でも、この元気って、完全な自然ってことでもあるけど、人の営みとセットの自然も好き。あの山に電柱通したのは誰なんだろうとか、こんなに田んぼが整備されているのは具体的な人が努力した歴史的結果なのだろうなとか。坂も良いし、もはやなんでも良い。

 

人の手が入っていない自然も好きだけど、これって、ほんとに自然。整備されていない山に分け入って獣道に入るとか。糞塚もみたけど、いつ猪がやってくるか分からないのによくやってたいと思う。虫とか草とか当たり前の世界。

 

 

思い出した。

視力が良いから、通路挟んだ人が手書きのノートに赤ペンで書いてた言葉も車窓として残っている。興味が芽生えなかったら残していないのだけど、テーマが日常と非日常だったから。

 

日常が仕事とか、非日常お酒と遊び?みたいな分類をしていて、最終的に日常の中で非日常を意識するのだ、みたいなところまで見て、窓側の席が空いたから移動して景色に視点を移した。

 

これは僕が完全にいまフリーだから言えることだけど、完全な日常なんて幻想だという説。仕事だろうがプライベートだろうが、毎日違うことが起こっているはずで、日常が存在するとすれば、それを当人がそう捉える様に調整しているからだろうって。

 

でも毎日の義務を日常と括って非日常を求める感情も分からんではない。日常なんてないって調整するのは大変だと思う。脳はなんだかんだ楽したい人だし。僕は脳は自分が思っているより遥かに頑張れる人と捉えている。そもそも脳と意識は別物で。

 

 

山口旅行史。

 

初めて行ったけど、運転してもらいながらこの景色デジャブだわと思ったら、高速バスで帰った地元の風景だった。

 

そうして、初めて会った人だったけど、普通は会わないよなぁとは思う。ただ、僕は自分の直感を重視しているから、それで事件になったらしょうがないという感覚。別に僕に会いたいと思わない人には行かないし。

 

実際やったことと言えば、カラオケと、海岸を歩いたのと、ちょっとした体温の交換と唾液の交換。わざわざ会いにいくとか、わざわざ来てくれたみたいな交換観念が成立しないからできること。(お互いフリーなことが前提

僕は男女関係の至上に性欲の発散を置いてない。性欲の発散なんて1人でできるし。

 

カラオケで声が出ないことも揶揄されなかったなぁ。

 

でも体温の交換(手を繋ぐ)の実感は大事なのだろうなとは思った。

なんだかんだ自分生きているわって。1人でも生きているけど、体温の移動ってなんとなく自然に近い安心感がある。ハグはまたちょっと違うけど。骨格とか。

 

 

なんだかおもしろかったのは、日記と通話と画像のまんまって言われたところ。

 

自分の顔は操作できない(加工すればあるいは)し、声も電話と実話は違うし(これが一緒ってどういう調整なのか定かじゃない)、一番は言葉の操作性。

 

 

言葉って、自分を良くできる一種の力。SNSだと自分の印象は当人の語彙の範囲内で自在に表現できる訳で。言葉の世界だと、言葉を扱えることが現実世界でピストルを持っていること同じ。

 

こんな中では、身の丈に合った言葉を綴る動機なんてない。

自分がファンタジーの主人公になれる訳で。

 

僕が綴っているのは、嘘を言ったら自分に返ってくるからっていう、言葉に対する畏敬なのだけど、言葉に畏敬を持ってない人は多い。言葉は道具だって。

 

バンプオブチキンのレムの文字数多いバージョンという評価は好き。

 

僕は色んな非現実を観測しているけど、だからこそ、身の丈の自分として存在できている。

 

 

自分の存在とはなんぞやって聞かれた時に、どう説明できるか。

自分を聞かれる状況ってきっとピンポイントの具体的事例の話が多いだろうけど、それではない。全存在的に。全存在的な自己矛盾の自分に向き合ったことがあるかどうか。

 

これを翻すと、つぶやき場で、長々文章書いている人を見ても、全然読めない。文字ならなんでも大好きな自分が。

 

内容は知らんけど、等身大で書いてない人のことは読めないとしとこう。

 

等身大で言葉を扱うって、発話だったら皆やっていると思うけど文章化するとブレるのだろうな。

 

あと、僕が関係性をほとんど断捨離したのは、自分の言葉に嘘をつかないといけなく

なった人。次は血縁関係かと思っている。

血縁関係って、一番原初の他人を日常に含める関係ではない?

ほんとに私を見ているのかって。

 

思わんかな。

 

 

最終的には、人って別に個人で在りたくないのだろうんなっていういつものことになるのだけど。個人に成るって人が単に成長して勝手にできるものではないし。

 

 

その、個人になったあとに、体温の交換とか唾液の交換が希少になる。冒頭の雄雌の交尾とは同じようで違う意味で。まぁ素朴に考えて、キスした時に相手の唾液に違和感を感じないことって結構生理的だけど、美味しく感じたら相性良いと思う。その前に食べたものではなくて、味覚でもなくて、なんだか相性良さげっていうのはきっとありそう。

 

この辺りが、思う人ではない感じる自分。

物理的な嗜好はあんまり操作できないっていうのは致命的だけど。

 

この境界を紛らわせるのが恋愛感情という説。

少なくとも愛とか美ではない。

 

ここから僕の肉体フェチを書いても良いのだけど、需要がなさそうだから省略。

 

 

僕が文章を綴っているのは、自分を承認されたい訳ではなく、自分を承認したいからだろうな。

 

 

おしまい。