思考の坩堝

避難所

迎合(後

 

 

はい、後編。

 

結局、税金のなんぞやなにも語っていないという。

租税法の解釈って全然好きではない。司法がそんなに偏って良いのかってなるけど、そもそもが国基準だから。どれを税金の対象にできて、どれをしないようにするかの分け方。

 

刑法も恣意的と言えばそうだけど、かなり人間味はある。情状酌量とか執行猶予とか。

なんだかんだ人情論なのだなと思うと分かりやすくなる。

 

まぁいいや。

 

前編では長々とお金の話を書いていたけど、僕はお金に関しては、ほとんど対価関係を重視しない。関係を金銭に換算されると、なんだかなぁって思う人。

 

別にこれ自体は否定しないし、分かるけど巻き込まれたくはないなと。例えば、かつての友人は凄くお金に細かくて、割り勘の平等だったけど、僕が静岡に会いに行った時は交通費分割しないんだなぁって思うと、結局自分が遣うお金の平等かって思う訳。それに対しての不満ではなくて、平等が一貫してないなって思うだけ。まぁトータル払って貰った方が多いかもしれないとは思うけど、なんとも言えない感覚がある。

 

別にどうでも良いんだけど、本人の思想なら一貫した方がいいのではと。

金銭で換算するのであれば、交通費の分払うわってなる方がまともな平等ではなかろうか。別にこれに対して、自分が払った分が平等じゃないから苦言を呈していると思われるちと誤解になる。僕は単にこの人に会いたいから行っただけ。なんだか元気がなさそうだったから。んでそれに対して対価は求めてない。

 

まぁ、一貫するって難しいとは思うけど。

 

 

翻して、山口に行ったときは気持ちよかった。

金銭ではなく、時間の対価理論だったから。金銭の対価と時間の対価の似てる非なるものは、金銭の交換は相対的だけど、時間は絶対的だから。勝手にカラオケで払ってホテルでも多めにお会計で支払われたことは忘れない。金銭的平等ならこういうのが一貫していると思う。

 

まぁ、別にほんとにここはどうでも良い。

 

時間的平等性が一番大事。

 

お金をかけたことより、時間をかけたことに重きを置いてくれる人の方が関係できる。

 

時間は絶対的なものでどれだけお金をかけても償えるものではない訳で。

選ばれた時間に対して申し訳なく思ってくれる方が平等の関係が構築できると思う。

 

 

他人が自分に費やす時間なんてどうでも良くて自分が他人に費やす時間も物理的に制限されなければほとんど意識できないはず。

 

という意味で、僕は自分以外でも時間が遣えるならそっちに費やしてくれということで人間関係を断捨離した。断捨離できるということは、好きではなかったということになりそうだけどそうでもない。好きだけだけど、僕の為に時間を使ってほしくないという考え方。

 

 

僕が時間を選ぶのは、早いもの勝ちみたいなところがある。

 

 

やれやれ。

 

 

ここで、神秘学的な見解がなんとなく答えていて。

修行は知らんけど、結局は自分の内側の支配者を見つけなきゃならないっていう見解。支配者とは外的な刺激に影響されない自分のこと。

 

こと自分に関しては、僕の支配者はいつも誰かの為になれない自分について悔しがっているところがある。くやしさで物理的に泣けてくる。

 

同じ支配者なのかは知らないけど、自分も含めて人の言動はどうでも良いと思った方が自分が快適になるという方向性もあって。

 

どっちも支配者だとは思う。

 

僕は自分に何かをしてくれる人を求めていない。

 

自分に時間をかけてくれる人はまぁまぁ気になる。自分の文章が読まれるって、関係性としてえっちぃような。卑猥というより生々しい。

 

 

時間に関しては需要と供給が合わないから、あんまり厳密に考えている人はいないだろうけど。

 

 

まぁ、僕の存在は誰のためにもなっていないと自覚している。

 

 

おしまい。