思考の坩堝

避難所

認識

掃除機を買いに行くのは逃した。アリの巣が構築されていくのを眺めるアプリをやりつつごろごろしていたから。髪も切るかどうか迷うところ。毛量的にはあと一週間くらいは大丈夫かと思うけども。

何について考えようか。

日本史の四大公害なんて風化しているし、社会の教科書でもなんとも薄味で書かれていたけど、教養の日本史ではなかなかの生生しさだった。水俣病の時、猫がけいれんしながら海に飛び込んだとか。本当に生々しいのは、そんな異常事態があったのに3年放置して子供が発症したという部分。社会に頼っていてはなんにも守れない。結局企業の利権で発覚が遅れたみたいだし。これって科学的見地が遅れていただけだとすれば、ここから先も起こりうるもの。

PM2.5が認知症のトリガーになるっていう研究結果も出てきているみたいだし。
やっぱり、日本語だけでは情報源に限界があるなぁと思う次第。でも情報って、結局は自分がみたいものしか見つからない訳で。世界とは良くできている。

だから、客観的世界論は全然信じられない。
その客観は主観の延長だろうって。

なんだっけ。

平等とか差別とか権利とか義務とか。


子供憲法というがちょっと流行っているらしい。いじめは犯罪だとかなんとか。確かに暴行とか障害とか脅迫、窃盗も全部犯罪だけど、少年法があるし法的なルールで被せたところで何が解決する訳ではないとも思う。大人だって法律知っている人なんてほとんどいない。だから専門職がある訳で。

憲法をちゃんと知っているのが大人だったらとっくに世の中変わっている。

法は観念だけど、文字化してしまうと後はどう捉えるかということになる。

自由には責任が伴うっていうフレーズは良く聞くけど、この自由を社会的なものとするか、憲法上のものとするかで意味合いが全然違う。

社会的なものだとしたらそれは分かる。自由ってわかり易いレールから外れることで、外れるデメリットも享受しなきゃならんよねって。

ただ、これを憲法上の自由とするなら全然違う。表現の自由を社会に適用する人がいるけど、この自由は、選択肢の話。選択肢すらない時代の人が作り上げてきてくれたカタログを国から制限されないということ。だから、個人間で表現の自由って使う人は語彙がズレている。

自由にも色んな意味がある。


対等とか平等もそう。色んな意味がある。

人がこの言葉を語るとき、自分というか、自分が観測する範囲で自分が属している分類が割を食っているっていうところがあると思う。

本当に個人間でこれをしようとしたら、労力とか対価ではなく、時間で判断するべきだと思うけど、仕事って生産性より拘束時間みたいなところがって、義務教育から大学まで、教えられることは時間で区切られている訳で。時間の対価がこの時点でバグる。

憲法上の平等論も裁判にするとなったらどういう不平等かっていうのを具体的に主張しなきゃならないから、結局自分が割を食っていることが気に入らないっていうのが本音であって。

普通に考えて、人間関係ってどう調整したところで対等にも平等にもならないと思っている。問題は、この不均衡をどう扱うか。不均衡で割を食っていると思っている人は関係している人に高圧的になるだろうし、自分が選ばれて申し訳ないって思う人はへりくだるだろうし。

世界って本質的にはこれだけだと思う。僕も自分が人間関係においてかけたものが帰って来ないことに不満を持っていたときもあったけど、これって相手によるだけなのだろうなって。相手が求めない人だったら良好になる。

人に対して求めないって凄く難しいことだけど、要は、自分がやってることは、自分がしたいからやっているだけで、対価なんていらないって自責にできること。

返って来ないことが悪いことだっていう観念から離脱できてよかった。ほんとに。


対価がないとできないって動物にも劣りそうな観念。
でも、対価が当然の世界ではこれが人間的だったりする。

こういう意味で、世界は客観じゃなくてあくまで主観だろうという説。
神秘的な意味ではなく、泥臭い実感として。

人間関係も、都度都度、自分に合った人と出会える仕様なんじゃないかと思っている。
自分が変わっている限り。


僕の世界でいうと、どんどん変わっている。人は瞬間を認識できないから、結局自分を翻るためには記憶に頼るしかないけど、トラウマじゃない記憶を生々しく再現できるようにならないと、自分で居られないような。

知らんけど。


おしまい。