孤独と個人

 

 

良い夢を! がやや口癖になっているにもかかわらず、自らの良い夢率は高くない。昨日は深夜1時に隣人がベランダで洗濯機を回し始めたから、雨音のアプリでなんとか寝入ったのが悪かったのか、親戚の集まりで従妹の集団への疎外感みたいなことが夢に顕在化された。自分がその輪に入りたかったように描写されていたけど、どちらか言えば、入らなきゃならないという同調圧力の方が嫌だったのかも、と、未だに引っかかっている。というか、むしろここが最後の引っかかりという気もする。          

 

僕はずっと独りになりたかったのかなぁと。独りというか個人か。親戚が集まれば、相手は従妹であり、叔父叔母であり、祖母祖父であり、知ろうとする前に役割が決まっている訳で。逆に、古臭い話、宗家の唯一の継承者だったし。全然継承していないけど。

 

いや、確かにどんな括りでも、役割が決まっていることは自他ともに関係に消費する思考とか感情は省エネできて楽だとは思う。諸々の他人を表する言葉は、元々区別のために生まれた言葉だろうけど、区別だけではなくなってくるだろうなと。もともとどういう意味合いをもっているかと、今どういう観念として使われているかは全く変わって良い。それが言葉の可能性というもので。

 

仏教の本読んでいたら、宗教っていう言葉はもともと仏教を指していたらしく、なるほどなぁって。憲法学で宗教というとだいたい神道が多いけど、これは、また別の歴史。あと、哲学も同じ時代に発明された言葉だとか。言葉の歴史というはなかなか面白い。まぁ、言った通り、言葉なんて遣う人が何を込めるかだし。

 

「ことばと意味」ではむしろ、単語はあんまり関係ないのではという話になっているけど。ことばは1つなのではないかって。たしかになんとなく分かる。でもこれって1つの側面しか見てないような。歴史的な学者さんに物申したい訳ではないけど、これは伝達とか思考の道具とかいうところしかみていなさそう。いや、あえてそこだけ書いたのだって言われそうだけど。

 

言葉って他人を括ることができるけど、自分も縛る。自分を縛っている人が他人も縛れるのかなぁと他人事的に思っているけど、実際どうなのだろう。他人に怒ることができるってこういうことなのだと勝手に納得している。

 

ただ、ここにも難しいところがあって。

僕は、自分が苦手なことってだいたいはただ慣れていないだけという持論があるけど、苦手な人に関しては一生慣れなくて良いなって思っている。これはあしらいに慣れたところで、何の意味もないという面もあり、個人的な人格としてなにも変化がないから。

 

むしろ、変化しないように制限することが他人とうまくいく作法なのではとまでも思っている。僕が他己観測で変化しているかと言えば怪しいけど、ここはあんまり関係ない。

 

主観的観測として、今が一番自由で、好きなように過ごしている。試験勉強していてスゲーなっていう人も居ないし、いちいち自分を制限しなきゃいけない関係もないし。

 

これってなんだろうと思うと、結局自責でしかない。

どういう訳か、関係があると不具合がある仕様。相対的にしか人を見られないと繋がっていると、その相手の相対的視点でしか反応できなくなる。

 

この欠陥はいったいどこからきているのか。

 

時間の使い方にバグが生じる。

まぁ、これは独りで過ごしている日常の時間が詰め詰めだからというのもあるかもしれないけど、相手の時間軸に合わせないと同じ時間軸で動けないし。

 

時間軸とかよく分からないかもしれないけど、関係における時間軸って、客観時間ではない。例えば、実家に帰ると時間の流れが全く違う。家の中に居る時は凄く重たい。遅いじゃなくて重たい。けど、自然は好きだから散歩とか墓参りする時は軽い。時間には早い遅いの他に重い軽いみたいなところもある。ない?

 

時間も言葉も突き詰めれば良く分からないな。

 

僕は、自分が誰かと幸せになりたいより、彼岸から、僕と接したことはある人をえこひいしながら、皆幸せだったら良いなって思うだけでじゅうぶんな人。

 

もう15年くらい前になるけど、当時一緒に寝てた人が起きてバイトに行くときに、ぽろっと、「今日は僕の番じゃないのか」みたいなことを言ったらすげーぷんぷんしていたのは未だに疑問。自分だけがしんどくて不公平だって感じたのだろうけど、この感情って刹那でしかないからバグったのだろうなと。まぁこの人も苗字が変わったことまでは知れる距離だったから、ちゃんと幸せになっていればよいなって思う。

 

祈りはしないけど。

祈りは完全な特別枠。まぁなんだかんだ、この人も全宇宙枠には含まれてはいるけど。

 

色々アウトプット不良だけど、ここまで。

 

 

では、皆さん良い夢を!