縁と円

今日の夢はまぁまぁ良かったはずなのに全然覚えていない。一日なんとなく調子が良かったところから逆算。

 

寝る間際に、深夜に洗濯機を回す隣人とは反対側の隣人が、絶対窓際で話しているだろうという音量で会話を始めたから、窓を閉めて、夢と現実の間をまどろんでそのまま就寝。予定より1時間早く起きて目がしぱしぱしっぱなしだったけど、それでもなお。

 

まず、気候が歩くのにちょうど良かったから、徒歩通勤した。帰ってからの時間の方が大事なのだから、発想の転換で出勤は歩いて、帰りは電車で即帰宅の方が良いと気付いた。多少の疲れも、仕事アドレナリンでなんとなるし、ぎりぎりまで寝ようが寝まいがあんまり関係ない。それよりもプライベートのが大事。

 

ということを反映したのかどうかは知らないけど、職場の最寄駅に着いたら人がごった返していて。人身事故とのこと。職場に辿りつけない人達への同情は飛び越えて、実際亡くなってしまった人も含め、交通事故を50分足らずで処理しなきゃならない関係各所へのプレッシャーを思っていた。道路だったら現場保存とかの時間はもっと取れるだろうけど、なんだか公共の圧力の凄さを感じる。同期は職場に定時でたどり着けなかった人に含まれるけど、人身事故があった区間を避けて往復すれば良いのにって言っていた。自分が関わってないところには容赦なく冷徹になれる。というか、想像の範疇が及ばないのか。

 

かつて、想像力の欠如みたいなことを誰かと話していたけど、これって欠如じゃなくて限定じゃないかと思ってきている。想像力は結局当人に基づいているし、これの広狭を比べてもたかが知れている。

 

想像力と共感はよく似ている。自分が相手の立場になった時にどう思うかを考えてみましょうみたいな道徳の授業のやつ。共感を道具とする倫理観は当人の感情の範疇に訴えかけるものだから、分かりやすいけど、感情がまったく想像できない領域になるとどうでも良いのかという話しになる。むしろこの延長だと感情が腑に落ちない人にはもう異星人みたいな捉え方になる。

 

本当の想像力は、感情の話ではない。

不謹慎だけど、本日人身事故でなくなった人のその瞬間の体感を想像するとか、そういうこと。自分の体がミンチになった瞬間のその人の意識はどうだったのか。これを可哀そうっていう他人事の感情で括る方が不謹慎だと思わなくもない。というか、思っている。

 

 

要は、想像では感情は生まれない。生まれるとすれば、それは相手の感情ではなくて自分の感情でしかない。この文脈だと、自分は人の気持ちに寄り添っているとか言える人は全く信用してはいけない。同情で生まれている感情も当人のもの。僕の感情は僕のものだし、相手の感情は相手のもの。

 

でも、これっておそらく道徳の授業には採り入れられないと思う。だって、集団への帰属意識が分断するから、義務教育のシステムになじまないもの。

 

1つ気になるが、「人は何故腰痛を選ぶのか」にあった記述で、「自覚されている感情は身体症状をもたらさない」。慢性の痛みはもたらさないという意味なのだろうけど、これとPTSDとか円形脱毛症は整合的に説明できるのか。

 

考えてみたのだけど、後者の症例は、感情より先に環境があるのかなという感触。逃れられない環境があって、感情は後付けかなと。

 

 

でも、もともとの感情傾向も環境が先にあるわけで、ある意味輪廻か。

感情も鶏と卵の話なら、何を自分とすれば良いのだろうね。

 

ということで、ちらっと見かけた命題で、人の内面なんて事故で障がいになってしまったら容易くぶっ飛ぶソフトなのに、人を見る時に内面を見るなんて良く言えるなって。ただ、これって、肉体っていうハードでも同じことは言える訳で。

 

人が何をもって他人を人とするかというところにも、想像力の限定が働いていると思う。

 

 

想像力の限定って、おそらく人が発展できた原動力でもあって。

いちいち他人の痛みとか感情の起伏が体感できる仕様だったら、全人類悶えまくって生きるどころではない。感じたことに思い込めるのが同情とか共感なのだろうけど、この精度で人との繋がりを満足できるのもきっと仕様。

 

共感があるとすれば、共通項じゃなくて、エゴがたまたま一致したことで、継続性は全くない。

 

 

自己観測範囲で言うと、調子いい時は、ちゃんと自分と他人が分かれている時で、その状態の方が上手く話しが聞けるという。

 

でも、これって、孤立したいのか繋がりたいのか、どっちの精神傾向なのか定かではない。