縁は呼び寄せるもの

なんとなく水曜日の気分で働いていて、帰り際に木曜日だったと気付いた。これは1日得したのか損したのか分からない。何を楽しんでいるかというと、枠内での自分のコントロールというか、相手のコントールというか。厄介な人に当たるのも結構ヒヤヒヤで楽しい。色々引き出し増えそう。

 

結局どんな時だって何かの枠の中だし、解放に階層があるだけ。なんだかんだ肉体の枠が1番内側ともいえる。物理的には。

 

さておき。

 

今日の帰りは、駅に言ったらちょうど降りてきた集団が見えたから歩いて帰った。トマトもきゅうりも高かったから、ぶなしめじを買ってえのきと副菜にした。レンチンしてほんだしとゆかりで和えて。あと、なぜか水ナスが安かったから人参と玉ねぎとささみで醤油味噌炒め煮。一瞬酢鶏を作ろうかとも思ったけど、時間の枠から見て無理がありそうだからやめた。

 

時間の枠を作らないと、想像もつかない時間に押しつぶされる。たまにある休日ですらそうなのに。という意味でも主観的時間の方が大事。あぁ、だから初期の数学は時間を度外視したのか。知らんけど。

 

ともあれ。

 

おやすみ、東京。読み終わった。なかなかタイミングが良かった。縁の話。色々名言もあったけど、自分の言葉ではないからここには書けない模様。とりあえず、何かと何かが繋がっているということを外から直感できることで名探偵にみたいな話があった。

 

 

ということで、縁の話。

 

僕が縁を信じているのは、一度実際にあったから。別にこのエピソード自体は今やただのアーカイブだからどうでも良いけど、縁の概念が変わったのは確か。

 

縁って、偶然と同じような文脈で捉えられているように思うけど、本当はもっと主体的なものなのではという問題提起。時系列を遡るにつれ、主体性の所在が分からなくなるから、主体性が確立した後に絞った方がわかり易い。

 

一期一会とか、袖振り合うもとかっていう言葉もあるけど、これって、世界軸の共鳴というか交錯というか、端的にいうと、求めあっていたからそうなったっていう表現が一番近いような。

 

いや、もっと細かく表現するなら、アンテナの感度という名の直感が一致しないと縁が起こらない。直観じゃなくて共通項にするとややバグるけど、共通の趣味とかで安易に繋がるから変なことになるのではないかとか。

 

直観とか言語化できるものじゃないから、なかなか難しい。

そもそも直観を言語で定義付けることなんて無理だし。直観がいつから直感として正しかったのかってなると、自分が子供だった頃に教えてもらうことになる。

 

やれやれ。

 

慣用句で真理なのは、類は友を呼ぶだと思う。

 

これって、一概には言えないってずっと遠慮していたのだけど、煩わしい人が身近に継続して存在しているってことは、その煩わしさをその人も持ち合わせているというか、その煩わしさで自分を保っている感もあるだろうなって。

 

類友で言うと、僕と本の縁のちょうど良さが凄まじく。おやすみ東京もタイトル買いで初めての作者で当たりだったし。あとは過去に縁があったけど読み切れる段階ではなかった本の消化もある。

 

どうでも良いけど、シュタイナーさんの超感覚の本は胃もたれしてきたから二度目の途中でやめて、交換枠に古事記。原文の書き下し文で、注釈も全然訳してくれていないのだけど、今なら読み切れそうと直感したのかな。

 

あと、煩わしい関係については、今の仕事場全くない。

でもこれってきっと職場が変わったからではないと思う。見えるものが変わったというだけ。

 

今見えている世界なんて、容易く変わるのが人間の可能性というもの。

でも、今見えている世界と自分の人格を直結することで自分を保つ感覚も分からなくはないから、おすすめはしない。ここは何回も書いているような気がする。

 

でも、世の中に大勢いる自分より賢い人たちが、知識によって人格を拡げてないのはなんでだろうと思うと、知が人格の為の道具なのだろうなと。こういう目的で収集した知識は、きっとマウントを取るための手段でしかない。

 

 

哲学は知を愛することで、好奇心とほぼ等しかったっていう言葉も灯。

好奇心も現代では野次馬みたいなニュアンスがありそうだけど。

 

最後。

 

縁が主体性だとすると、僕が近しい人が途切れないのは、自分が寂しがっている証左のようでなんとも言えないところがある。これも垢なのか、それとも本質なのかの判断は難しい。

 

おしまい。