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台風と自由と尊重とパターナリズム

 

僕が行っている会社、僕は今のところ勤務ないけど、通常は土曜日も動いている。けども、明日は営業停止するらしい。大阪だからそこまで影響があるかというと相対的には未知数だけど、サービス先が全国だから、防風圏内の店舗は営業控えようかっていう意志表示があって好感が持てる。営業を停止するコストと安全の天秤で安全を選んだということだし、自社の社員も守っているし。

 

というところで、今日は暇だったから隣の席の同期が、最終新幹線で東京に行くと言っていた。今頃は名古屋くらいか。

 

危ないからやめといた方が良いよとも言わなかった自分は薄情なのかという命題。

 

僕は自由には危険に向かうことも、危険なところに居ることも含まれていると思っている。この自由に対してそれを禁止しようという傾向はパターナリズム、日本語で言うと、保護主義であって、これが本当に優しさなのかという疑問がある。

 

そもそも保護主義って、対等じゃない関係性の中でしか生まれない。親子間での禁止なら分かる。これは安全を保つための保護だから。

 

でも、対等な関係において、保護主義的な考えが浮かぶのはおかしくないか。

危なさを知らない局面において、これは危ないって提言するくらいなら良いけど、危ないからやめろってなるのは、対等じゃないよなぁ。

 

そもそも、危険ってあらゆるところにあるから、なるべく動かないのが一番安全だし、移動の自由自体が危険を伴っている。自分だけは大丈夫って高を括るのも勝手だし、これこそが自由の本質。

 

良いことだけ得ることが自由だと思っている人は自由の観念を都合よく使っているし、事由って、変な話、自分を気持ち悪いと思っている人が居ても生活できることだと分かっていない。この表現で分かる人はマイノリティ。

 

僕から見ると、普通とされてそうな方が感情的にグロテスク。自他の境界が繋がっていて、自分と世界が結合しているから、まぁいいや。

 

 

良くもないか。心理学で、最初の人格形成の時点で満足できる経験を得た人は正常みたいな話があったけど、個人的な見解だと、本当にこの意味正常な人って居るのかと考えた。

 

 

で、今のところだけど、ここでいう「正常」って、自他の境界性が曖昧にできることなのだろうなって、重複表現。

 

曖昧にできるから、男は女はみたいにざっくり区切れるし、年齢もそう。正常の条件って、外から規定された枠を自分のこととして捉えられることだと思われる。だから、戦争の時に人を殺すことも、平常で自分の枠に含まれない人を平気で攻撃できる人は正常なのだなと。

 

僕の素朴な見解だと、正常って世界とか社会とは関係ない。

社会の最低限の刑法に引っかからない限り、どれだけ人を攻撃することも自由なのよね。このグレーゾーンで中でのバランスは、個人の人格でしかない。

 

という絶妙な瞬間が今世界の中での自分の人格。

 

 

外に何を言ったところで、自分の人格が癒されることはないと思われる。

怒りでも不満でも祈りでもなんでも良いけど、発することは単なるエゴでしかない。

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共感されたいのか、賛同されたいのか、みたいに細かく分類すると、自分が何に攻撃的になるのかっていうのは把握できると思われ。

 

僕がどういう時に攻撃態勢になるかって考えたら、、今分析する頭がないから省略。

 

 

 

素朴なところに、どれだけ伝わっているかみたいな指標はあるけど、伝えたいっていう気概がない時点で表現者にはなれないのかなぁ(暫定