であるために

昨日の日記はつらつらと母親というか、母親のような精神傾向を持った人に関する歪みを書いていたけど、一番大事なことを書いていなかった。

 

僕の方が歪んでいるけどねと。

 

僕がメンヘラ傾向のある人とか、共依存系の人と関係していたことは、ある意味マザコンの亜種だったのだろうなと。耐性があったのも然り、まだ田舎社会の普通よりましだったし。

 

結局は何を自分に依拠するのかというところ。依拠しているっていうのは、何をもってこの世で場所を取っているかということ。僕としては、この依拠自体が不要なものだとする立場。何かの為になるから生きているっていう思考回路自体が逃避に見える。母親が、母としてやれることはやった(のに)みたいな発言をしている時に、その中に意志はなかったのかって思う。意志だとすれば、対価は考えないはず。

 

あと、お金にシビアな親子関係も2例知っているけど、これはこれでどうなのかと思う。確かに最初の他人が家族だっていうのは分かるし、生活の糧も大事だけど、他人との繋がりが貨幣でしかないという世界もどうなのか。この世界だと他人の行為も貨幣で換算されそう。

 

まぁ人間関係は返し返されだとは思うけど、施したから返ってくるべきだというのとは順番が逆。返すのが先で、返ってくるかどうかは分からん。

 

お祈り文化が僕の中で生まれた土壌はこういうところにある。

 

僕は意志という言葉より意思という言葉の方が好き。意がなんなのかはともかくとして、志向性というより、思うところに在るほうが近いようなという感触の話。

 

そういえば、今日はお出かけして買い物に行ってきた。債権法改正に連動した商法はどうなっているのかという専門書に当たりをつけて、梅田に行かずに千里中央に行ったのは、人がなるべく少ないのもあったけど、本屋的に好きなの。田村書店

 

まぁ、普通の人のルールって民法とされているけど、現実的に関わるルールとしては商法の方が多いだろうなと思って。どちらにせよあまり可視化はされないけど、可視化されないものが何なのかっていうところは、僕の意思の本質でありそう。

 

当たり前は可視化できないっていう感覚はずっと思っていようと思う。

 

ところで、お父さんと娘の会話がたまたま耳に入ってきた。(人混み苦手なのはこういうアンテナが装備されているからというのはある

 

ワールドカップまで三時間勉強しなさい、三時間しかないのだからみたいなお父さんの真顔の発言(視力というアンテナが略

 

まぁ小学校低学年から中学前半くらいの娘が大した抑圧を受けてなさそうだから良かったけど、勉強時間が習得した知識に直結するなら、とっくに皆義務教育の知識を全て得てセンター試験満点になっている。

 

三時間勉強させるのなら、お父さんが一時間教えた方が定着率高いかもしれないし、結局はどれだけやったかというより、どれだけ再現できるかだと思われる。

 

でも、初めてのものは良く分からなくても通すことが大事で、満遍なくとっかかりを作るっていう意味では義務教育はありだと思う。成績評価は正味要らんかなという感じだけど。僕が日本史とか世界史とか数学をもう一回浚えるのも、一回目があったから。学校の教育が実学としては無用のものだし習得しなくても良いって主張できるのも一回目があったからで。

 

強制的な一回目っていうのは大事。

それで、嫌だと思えばそれまだけど、それすら教養の一部で。

 

世界の可視化で言ったら、なんで台風ができるのかとか、低気圧で頭痛が起きるのはなんでやとか、知覚のメカニズムとか感情の起こりとか、知らなくても当たり前に生きている訳で。

 

自分探しって昨日の日記に書いたけど、生きる意味探しみたいな思春期の話ではない。生きる意味はないって結論付けている。じゃなくて、自分というメカニズムの研究。全然聖人ではなくて、異性への支配欲もありそう。これって、母とか姉とかも含めた女性社会への反発だから具体的な相手には出さないだろうなとは思うけど、我が感情ながら気持ち悪い。

 

あと、怒って良いんだみたいな風潮になっているけど、これって他人に怒りの感情を投げていいってことではなくて、自分の怒りがどこから来ているのかに向き合いましょうでしかない。怒りを他人に大っぴらにできる人って、当人の中で感情を吟味できていない。怒りの本質って世界への要求とか反発かと推察するのだけど、乳児幼児だったら泣きわめいたりぐずったりして助けを求めるしかないけど、大人が怒ってなんかおかしくないか。

 

要求を内省して、理性的に伝達した方が効果高そう。自分は怒っているっていうことを表明したい説もあるけど、だからどうしたいのってなる。

 

という意味で、僕も怒りを開放した方が良いかなと最近思っている。

誰かに愚痴りたいじゃなくて、ヒトカラという現代的な王様の耳はロバの耳で思う存分叫ぶとか。僕は僕を決めつける人に怒りを覚えている。

 

やっとここから本題。

 

十二国記詳説。

 

僕がこの物語に出逢ったのはアニメからだけど、なんだかんだ原作も全部読み終えてしまった。僕が何でこの物語に惹かれたかって分析すると、世界観が凄く創りこまれているところ。

 

現代日本人が異世界に紛れ込んだっていう意味では、ライトノベルに近いのだろうけど、おそらく作者さんの中では、物流とかインフラまで繋がっていて、世界の1つとして完結している。

 

出逢った当時は分からなかったけど、システムが凄く面白い。神様が居て、王様を選ぶ麒麟が居て、選ばれた人は寿命がなくなるって、ある意味国家そのものじゃないかと。ルールが細かく決まっているのも、物理世界のパロディっぽい。他の十二国記ファンがどういう風に読んでいるかは知らんけど、僕は当たり前の可視化のためのファンタジーに見える。例えば、この世界には半獣っていう、人間にも変われるけど、獣人形態の方が楽だっていう人が居て、障がい者とか精神疾患の比喩かもなとか。迫害されているし。

 

18年も続編を温めていたのは、十二国記の世界の秘密を開示するかどうかを迷っていたのではという逡巡期間だったのではと妄想している。ルールの外になっているし。個人的には慶王が出てきて欲しいところだけど、含蓄がありすぎる小説。

 

読書の効用って、ファンタジーでも良いけど、自分の外にも世界があるっていうことを把握できることではなかろうか。自分のための物語のために小説を読む人もきっと少なからずいるだろうけど。

 

物語の登場人物に自分を重ねられないと読めない人は、どれだけ読んでも自分に都合よくしか読めない。

 

これは物理的世界でも変わらない。

 

他人にはその人のエピソードがある訳で、同じ現象に接しても見えるものは違うし、残るものも当然違う。これを一緒にしようとすることを同調圧力と呼んだりする。

 

でも、これって、突き詰めると人それぞれで世界そのものが違うってことにならないか。

 

 

法律みたいな一番大雑把な括りでも、社会みたいなきめが粗い網でも個人は捉えられなくて、一番は、相手には固有の物語があるっていうことを読み取ることが相手を尊重することではなかろうか。

 

共感じゃない。共感は基本的に気持ち悪い。ある意味強制的まぐわいみたいな生臭さがある。これの意味が分かる人は、友達になれる。

 

そもそも共感って共感する主体のためのものだし。

 

ということで、僕は勝手に好ましい人は好ましいし、それで好ましさが返ってきたところで嬉しいだけで、原動力にはならない。いや、依怙贔屓的には微妙だけど。

 

他人事に悲しく思える感覚も良く分からんのよね。

他人事で悲しめるなら、世の中に存在するあらゆる他人事に悲しくなるのではって、当人の中でどう整合性が取れているのだろうって。

 

 

いや、全部に関与することはできないからっていうのも分かる。けど、そうだとすれば、自分の範疇でしか悲しんでいないって言ったらいいじゃんって。

 

別に人に厳密さを求めてないけど、自分にそういう風に投げてくる人には反射するかなと思うだけ。

 

 

おしまい。