誰が決める?

 

 

 

昨日のは、最後の方、共感じゃなくて同情だな。というより、あなたもこう感じるでしょうって内面に侵食する作用みたいな、厳密にはどちらとも違う作用か。言葉から内面を測ることは問題ないとしても、その内面は自分が予測した当人でしかない訳で、相手の感情とか思考は闇の中である。

 

思想良心の自由というのは良くできたもの。国が人の内面を探ること自体を禁じている。もともと踏み絵とか西洋で言う魔女狩りとか、ユダヤ人迫害、は微妙か。この、人の内面を決めつけて有害性かどうか判断するって、かなり素朴に魅力的な感情なのだろうなと。

 

表現になるとまた微妙に変わるけど。思想が表現になった時点で思想の外への現実化だから、現実なりの統制がある。思想良心には単なる記憶とか好悪は含まれならしいけど、表現には当然含まれている。もともとの表現の自由は政治的な発言だったからこういうことになっているのだろうけど。

 

表現の自由とか内心の自由が完成しいてくと、返って原始状態に戻るのかも、と思わなくもない。不快感は原初の連帯感。嫌悪間でしか繋がれない関係はなかなか原始的だけど、それくらいの自由が許容されるのはまさに社会的に成熟している。

 

法律も社会も、個人の総体から創られたものではあるけど、個人そのものではない。

 

さておき。

 

今日は、ぼちぼち本を読んで、なんだか知らんが弁当を作る前にお風呂の掃除をして、割と活動的ではあった。でも、なんとなく寂しい感はある。気温なのかなんなのかは知らないけども。気温は、10℃台になって季節感がやっと出てきたかな。外気にはまぁまぁ敏感だけど、寒さ自体には強い。これは平熱の関係なのかどうかは知らん。

 

昼寝していている時に何か面白い夢を見た気がするのだけど忘れた。

 

僕は何をもって人と繋がっているとするのかが良く分かっていない。

分断を是とするから、相手が自分に何かしてくれたとしても、これは相手がしたいから勝手にやっていることであって、僕がどう捉えるかは別問題だろうって。

 

祈りも勝手だから良い。

あと、つぶやき滞っているのは何かあったのかなという心配と評される思考も勝手だ。

 

やはりこうなったかという感じ。

 

 

まぁいいとして。

 

英語もほぼ毎日やっている。TOEICの単語集アプリの例文集を聞きながら弁当を作って、お風呂読書で1ページずつ音読している。単語はなんとなく増えてきた感。これの流れで、日本語を話せる人が日本語の文章を読めるのかというひとまとまりの思考があるのだけど、また今度。発話、読み、書きってそれぞれ別の回路だろうって。

 

音読と言えば、仏教の本の巻末に般若心経が付いていて、これも音読してみたのだけど、リズムが良い。意味はまだあんまり分からないけど。

 

あと、古事記の音読も良い。

日本最初のまぐわいの描写のところを読んだのだけど、性交渉の同意の取り方が書かれている。なんていい女、なんていい男、僕のはみ出した部分をあなたのへこんだ部分を合わせてみませんかみたいな。なんで最初の子供が蛭子だったのかは分からないけど。試行錯誤の表現なのかどうなのか。

 

会計と租税法と数学が同時に終わって2周目が始まっているのだけど、僕は自分の頭の悪さを知っているから、あと5回くらいで理解できればいいと思っている。そういえば日本史も2周目か。考えるためには概念を定着しなきゃならない。

 

みんな自分への諦めが早すぎる。

 

本を読むときも、心象風景で展開するのか、理解に努めるのか、疑問を抱きながらなのか、色々彩があって。同じ方法論では読めない。これは別に本じゃなくても一緒。日常を当たり前としていれば平板な毎日だろうけど、読み方を変えればなんとでもなる。

 

ならないよって言うなら、それは、近しい関係の中に自分の世界の見え方を規定している存在が居るような。でもどうあっても最終決断は自分だからなぁ。

 

 

おしまい。

 

皆さん良い夢を。