好物

 

今日の夢はなんだったっけ。割と良好な夢だった気がするけど覚えていない。課題とか引っかかりがない夢は記憶に残らないのは生身でも同じか。そりゃあ日常に含まれないものの方が残る訳で、日常とは、当たり前だから記憶に残さなくて良いという省エネ機能。

 

脳の機能というより、意識の機能っぽい。いや、脳の情報と意識の間なのか。記憶術は当たり前にしないために、繰り返してこれはスルーしてはいけない情報とするのか、既存の情報と無理やり繋げるか。他にも何かあるかも。

 

さておき。

 

ハナガサイタヨー。

悪の華アニメ版のエンディングらしいけど、これは果たして歌なのか。詩ではあるから原作リスペクトなのか。原作は良く分からないけど、何故だか元気が出る。どういう部分が刺激されているかは分からない。ということもないか、おそらく孤独の部分。良きタイミングだった。昨日の日記のタイトルのアホウドリボードレールさんから。

 

詩で言ったらこの先でまだ読みたいのがあったはず。美学関係のやつ。誰だったか忘れているけど良きタイミングで手に取るはず。こういうのは運命論に見えるかもしれないけど、手放しでは辿りつけないという意味で運命論と似て非なるもの。理解のための前提理解には自分に近いものから食べていくしかない。

 

 

ともあれ。

 

昨日はなかなか落ち気味の日記だったけども、特に堕ちてはいない。むしろフラットなところがあの辺り。別に誰かに当たる訳でもなし。ただ、奇特な人が悲しむかもしれない。けどもその悲しさの為に自分を変えることもできない変態。

 

人の器というものを考えている。ふと、僕が料理するようになったのは、実家では家で母親が働きながらご飯と弁当を作ってくれていて、これが当たり前だっていう深層心理があるのかもと思った。父方も母方も専業主婦だったし、母親はなかなかイレギュラーな存在だったような。家計も食卓も守らなきゃならない。仮に都市部でスーパーご飯が当たり前の

食卓に育っていたら、ここまでになれているかというとそれは分からないなと。

 

まず、最初の味覚が天然物じゃなかったらそれが当たり前になって、天然物がまずく感じるかもしれないし、料理に時間をかけるものではないっていう観念が生まれているから、たぶん作ろうとすら思えない。天然物だから良い訳でもないけど。

 

と考えると、自分の中にある最初の観念次第で自分が決められているというのは否めない。変な話、父親の軌跡を辿っている気がしなくもないし、生まれ落ちた生活環境については運ゲーでしかないよなと。

 

これを分かっている人は問題ないけど、分かっていない人は拘束を再生産していくからよろしくない。よろしくないとは分かっていても再生産してしまうのも分からんではないけど。

 

人と自分を切り離して、自我と物理的自分を切り離す手法は視点によっては冷たいものかもしれないけど、僕の中で試行錯誤した結果として1番優しい形。自責にも他責にもしない。ただ、試行錯誤だけは止めないというだけ。

 

人が自分と物理精神問わず関係したことに対して色々考えても、それは僕の中でしかなくて、全く何の意味はない。意味があったとしたら再接続の意思が見えるだろうし、何に意味を見出すかは人それぞれでしかないし。

 

あと、自分を自動にするという手法も最近覚えている。ルンバじゃないけど、昨日何を思ったのかシンクの掃除をしていたし、放置していたら意思より勝手に動いてくれている。意志がないと動けないというのは嘘で、意思がないと人は動かないとしている観念に弊害があると思う。

 

この文脈で、相対的時間を都合よく使うっていうこともできてきた。絶対的時間軸だと、例えば夏休みの宿題は最終日に無理矢理終わらすとかやっていた。でも、時間の有効的な使い方って、毎日ちょびちょびやる。うさぎと亀の童話は良くできている。

 

でも、これって結果を求めると無理だろうなと。

結果から逆算して工程を決めるっていうのがちゃんとした大人っぽいけど、これは僕には無理。でもなくなりつつあるけど、まぁ良いや。

 

 

これを対人関係に引き直すとどうなるか。

 

僕は好きな人は勝手に好きだし、相手に好かれる結果を求めてないから、好まれたところであまり変わらないだろうなと。嬉しいけど、この嬉しいは僕の物だから流用したくない。

 

 

というやっぱり変態でしたということで。

 

おしまい。

 

地域によっては急にあったかくなったから皆さんの体調が崩れませんように。