恒常性
今日はなかなかすっきりした。お風呂用の洗剤を買ってきてユニットバスを丸洗いして、シンクも軽く洗ってごみも捨てた。こういうのは日常に小分けした方が満遍なく時間を使えるのかもしれない。休みの日にまとめてというのは性に合わないし、寧ろ休みの日にどれだけ時間を自由にできるかの方が大事。シーツ洗って干すとかは無理だとしても。アイロンがけは1枚なら3分くらいで終わるから毎日ちまちました方が良いのでは。
と、試行錯誤。
試行錯誤に余剰エネルギーは必要か。
今日余剰エネルギーがあったのかと言うと、なかったとは言わない。
六法買ってテンションが上がる変態。けど、この行動が報酬と直結しているとするのはあんまり人間的ではない。いや、人間こそてきとーに因果を繋げる存在か。
エネルギーに志向性があるとかではなくて、無軌道でしかないっていうのが現在の実感。無軌道なエネルギーと自分の精神を繋げて消費を計算するという感じ。矛盾というか不一致というか、動機だと自分が考えていることは実際動機でもないとか。無同期?
こういう感覚は個人的には自分の向上ではなくて、自衛な感がある。自分が誰かを傷つけた実感ほど相手は傷ついてないとか、無駄に流されないという観念。他人の感情を慮るなんて不可能だと知ることが大人なのかもな。この文脈での言語は、慮ってくれっていうための気遣い。
発話ってきっと自分がそう見られたいっていうところの裏返し。
もちろんひとりごとは別だけど。僕があまり相手のこと見えているって言わないのもそうなのかも。逆からするとハードルを上げるというより、この人自分のことここまで見てくれているのかみたいなことになってこの評価は要らないなと。
今日あんまり文字数いかない気がする。
動機は後付けだっていうのは脳科学的には解明されているようだけど、法律ですらまだ動機を問題としている。どういう意図をもってこれをしたかって自分の行動すべて説明できる人はきっといないけど、法律に関わるところであれば動機が説明できるし意味があるってなんかおかしいような。
でも、プロ棋士は自分が指した手の理由を説明できるとか、憲法学者さんが読みやすい論文とは自分が書いた一言一句の配置を説明できると言ってた(この人将棋が好き)ことからすると、大人はプロ社会生活人なのかも。理性と合理で自分の行動をコントロールできるから、動機も説明できてしかるべくみたいな。
個人的にはこういう自分の行動の説明みたいなのは、無理やり同期させているだけなように感じる。これからする行動も同じ。体と精神は重なっているけど同じものではない。同じにしすぎると、精神疾患になるし、常識人ぽい人がまともっぽく見えるのは、生活領域が限定されているからだと思う。
これを踏まえてどうするかっていうと、現実世界ではなるべく自分のことは表現しないようにしようとなる。弁当毎日作っていてすげーくらいならまだ良いけど、それ以上になると関係がめんどくせぇ。
誰かに認められてうれしくなるってことは、その誰かに自分が規定されていることでは。
嬉しさ自体は問題ないけど、嬉しさを日常としたいとなると、相手のための生活になる。それでも良いっていう強靭な精神を持っているなら問題ないけど、こういう関係は結局そのうち不具合が生じる。生活を継続するための一番の条件は、情でも愛でもなく、違和がなるべくないことでは。
まぁいいや。
おしまい。
皆さんが体調崩していませんように。