齟齬(11/9)

貼れていなかった。なんでだろう。

以下本文。

 

黒い月を眺めた帰り際、空には白く浮かんでいて、そのうち見慣れた黄色になった。

至上の1日。現実の中の非日常は、夢というか仮想と同じようなもの。となると、現実自体が危うくなる訳だけど、先取りか。意思では遅い。

さておき。

今日はほとんど日記になる予定だけど、この文字化される僕の1日が僕の現実化と一致するのかというとどうなのだろう。日記も出来事を語る発話も、印象に残った事象を表現しているだけで、そのものではないような。だから良き。まぁ良いや。

昼頃にシャワーを浴びてワックスつけて眼鏡を用意して出発。厚手のコートは暑いかと思ったけど、自然を吸収するにはちょうど良いと予測して、移動時間用の小説でここ1カ月くらい温めていた森博嗣さんの最新刊を買って。

あひる公園は、最初見たより随分整備されていた。コンビニで買ったお弁当は僕が作るような薄味でレンコンのゆかり和えもあった。でも人が多かったからやや食べにくく。食べる姿はなかなか浅ましいので。

ともあれ、池を1周しつつ見ていたのだけど、亀、魚、鴨と生物の宝庫。ただ、綺麗かどうかでいうと、循環があまりないらしく、なかなか混沌としている。多分鳥類の羽の生え変わり時期だからだろうけど、羽毛量が凄かった。肝心のあひる小屋は特に劣化もしない代わりに当人もいなかった。でも、終わり際に柵で囲われたところに隔離か保護されているあひるを見つけることができて良かった。アヒルと鴨は共存できないのかね。ただ、頭数が当初より減っているのが気になる。あんまり衛生的とは思えない環境だし。

PM2:00

やはりというか、無軌道エネルギーが暴走して、もっと自然に触れたい欲求で、そこから京都に飛んだ。車窓と小説とどっちを読むかでせめぎ合いながら。この辺りで思っていたことは車窓から見える、布団を干している家々。屋根瓦に干しているところもあった。どういう発想かは不明だけど、誰かの日常は他の誰かの非日常で、休日のプチ旅行も日常とする人もいるかもなと。人の営みを眺めるのは楽しい。なんでここまで秩序を保っているのだろうっていうのも不思議。

そうして、嵐山に着いた。着いて思ったけど、何回か着たことあったなと。母親とも来たことがあるし、モンキーパークは別の人と二回登ったことがある。今回初めて上流に歩いた。紅葉はそれほど色付いてなかったけど、自然があるだけで良い。自然の中に居ると全身で
息ができる感。人間にも葉緑体があるのかしら。川に浮かぶ有象無象のカップルの船を風景にしながらひたすら歩く。この人漕ぐの上手いなとか。

そうそう、ここで黒い月。
好きな人の作品が展示されているのを見たいっていういうエネルギーが今日を創ったと言える。一回大きく逃してしまったし。

パネルが等間隔(じゃなかったかもしれない)に並んでいて、竹林の写真のごく一部が円形の黒に切り取られている。竹林は実家の山にそういうゾーンがあったから好き。実家のはパネル程上品

 


ではなかったけど。


もっと説明文を食べたかったけど、僕が表現物を食べている姿はにやにやしていて食べ物の摂取より浅ましいし、あんなに賑やかなところではある意味わいせつ物だから、ちらちらとしか見られなかったけど、要は死角というか盲点みたいなことなのだろうなと。

なんか否応なく色々考えさせられる作品は良い。
黒い月は説明文から引用させて貰ったけど、そもそもこういう視点を持っている人もいるし、これが当たり前に過ごしている人にとっては、これが見える世界の全てな訳で。そうして当人には、それが欠いているなんて分からない。

僕が素朴に感じたのは、向かう道中に傘の先っぽに穴をあけて繋げてカラフルな屋根みたいにしていた駅があったから、これは穴なのかなと。で繋げて考察してみたい欲求に駆られたけど、なにぶんご当地キャラクタとか歌っている人とかトランポリンとか観光客多々で無理だった。記憶で再現しようとしても夢みたいなものだし。

長居して作者に注視されるのも申し訳ないし、なんだか作者さんの生活について自分が異分子みたいな居たたまれなさがあって、たぶんライトアップで綺麗だったのだろうなというのを見たい欲求よりさっさと自重するかの方が勝ってしまった。

なるほど、髪の色を束で微妙に変えているのかなとたまたま接近したから見えた。目が合って、この人が作者かときょどってしまったけど、視力とか、相手の主観的世界によりけり。まぁ流石になかろうけど。

主観的世界の話。

温めていた小説は、仮想世界と物理世界がほとんど混同されている世界で人とはなんぞやという話でなかなか繋がっている。


では、現実とはなんなのだろうという問い。

何をもってって現実とするかって当たり前に物理的肉体とか物理的社会性だけど、もっと素朴な疑問。現実の一日をどれだけ再現きますか?

人のスペックでは、日常の1日すら完全に動画で再現はできなくて、自分が注視した現実を重ねることで自分が成り立つ。これって、黒い月ばかり見ていることにはならないか。

僕はこういう意味で、自分の主観をあんまり信じていない。信じていなくても滞りはない。僕の素朴な世界観は割と正しく世界を見ているような気もしている。

フラットに他人を見られる人はほとんどいない。
だから、世界がほどほどに満たされますようにということになる。

全部知らんけど、とりあえず、皆幸せであれば良いなって思うのも確か。僕がいない所でっていう注釈付きだけど。

おしまい。