見方の違い

 なんとなくかけたミスチルのしるしがなんとも心象に合っている。心の声は誰が聞くこともない、それも良い。その方が良い。

 昨日はふかふかなことを考えようとしたのだけど、畏れ多さがでてきて、自分はそれを俯瞰している抽象的な体の重なりのような脳内風景になった。それを眺めていて思いついた。人が人を求める衝動の中には、自分が他者の中に存在したいという昨日の日記の外に、自分では見つけられない自分が見えるというものもあるのではなかろうかと。物理的なところだと、例えば自分の背中にある黒子は自分ではどこにあるか分からないし、自分の目というか顔も直接見ることはできないから、相手の瞳に映して見るとか。まぁ昨日の日記からすると、「直接」とは何ぞやという疑義もあるけど。

 ともあれ、そうこう考えると、物理的肉体の接触が1つになる試みだとすればなかなか不毛ではある。吐息の熱さを胸に感じても肌に舌を這わせて味わっても、そこには交換、摂取のような概念しかなくて、同一化には至らない。これ以上ないくらいぴったり肉体をくっつけたとしても、形而上の隔たりが、というふわふわというより、官能的な思索をしていた。

 そうして、何故か7時に起きられた。今日は何をしたという訳でもいつもぎりぎりに家を出ていたところから5分だけ早く家を出た。たった5分だけどこの300秒が作った余裕のおかげで、道中にバラが咲いていることに気付く。視界を構成しているのはしりょくだけではない。

 あと、テンションがやや高かった。テンションの定義も良く分からないけど、気分がスッキリしていた感じ。理由はとても簡単で、昨日の思考が大いなる無駄に辿りついたから。無駄なことができるのが人間だと思っているから、何の利にもならない自分はとても人間的で良き。というとても不可思議なスイッチがある。自分をコントロールしている自分をコントールしている、、、、と無限合わせ鏡のような自分であるしかないとしても、そこを思考できるというのは、楽しい。こういうところに自分がこういう精神で生まれて良かったなと思えるところがとても変態だと思われる。何処で生きているのか分からないけど。

 寝る前に、入眠用ブログを読んでいたのだけど、一通りは浚ったはずなのに初見な味がする日記がいくつかある。記憶力というか心象想起力の減退かもしれないけど、新鮮な味わいがあってよかった。それとは別にふと思ったのが、僕は何故か好ましいヒトの顔が思い出せないという特徴があるのだけど、それと近いのかなと思った。顔自体が認識できない障がいもあったと思うけど、そうではない。コンビニの店員さんの顔とかスーパーの店員さんとかの顔はよく覚えている。なんだろうなと考えると、特に関係がない他人の顔は景色のようなもので風景として認識できるけど、あまりに移入していると、自分の中でその人の顔だけ分離できない、いや、今思いついただけだからあまり練度がない見解。撤回する。

 大型本屋に行きたい衝動がもりもりである。行政法のとても欲しい本があるし、大型本屋独特の圧倒的情報量に3時間くらいまみれたい。僕は意志をあまり信じていないけど、衝動は信じている。信じているというのは、行動に繋がるかどうかという意味で。意志は主に「未来」に向いているけど、衝動は「今」だから。

 人間が1日で物理的にできることなんてほんとうにたかが知れている。これって単位時間が長すぎてあまり実感がないのではないかと思っていて。例えば10分で自分に何ができるかとか時間をもっと細分化すると良いと思う。1分で何文字綴ることができるのかとか。ここまでいくと極端すぎるかもしれないけど、なんにせよ、1日では把握するには長すぎる。つまり、「意志」では途方もないところまで射程に入れないといけなくて、行動のエネルギーというよりは、標語みたいに見える。衝動だと、今のエネルギーに従うかどうかだから個人的にとても分かりやすい。

 まぁこんなの何処を起点にして見るかの違いでしかないのだけど。僕は自分の認識が拡がることで見える世界自体も拡がるとしているけど、見る世界を変えることで認識が拡がると捉えるのも同じこと。

 うわ、もうこんな時間か。もっと個々の単位時間も短くしていかないといけないな。では、おしまい。

 

 皆さんが安らかでありますように。