思考の坩堝

避難所

好むと好まざるにかかわらず

 今日は米津さんの声を聞きながら。パプリカか。個人的にはメランコリーキッチンとかViビビとかが好き。

 さて、今日は特に準備した思考がない。書きながら考えよう。あ、1つあった。やっと本格的な冬の寒さ。明日は鍋と熱燗にしようと企んでいる。まぁ鍋だったらビールでも良いけど。2人以上でお酒を飲むことがめっきりなくったから、忘年会大丈夫かがやや心配。暴走するとかじゃなくて、会話に疲れそうという意味。まぁうまくやるだろうな、というところもあまりよくないと思う。

 あぁそうそう。肩甲骨から首にかけて老廃物が溜まってきたから、長そうとストレッチをしてみたら、体全体がやんわり不具合。まぁ特に日常に不具合をきたすほどのことでもないし、固まっているところを流れるようにしたのだから、それなりの反動はあるだろうなと放っておいている。何か強いものを使うのはぎりぎりまでやらない派。歯痛の時にロキソニンくらいか。東洋医学繋がりで漢方は気になっているけどどうなのだろう。健常だから儚げな人が好ましい、のはまた別の話。

 毎年この季節になると、道路の脇に等間隔で並ぶ銀杏の葉色の変わり具合の個性を想う。日照とか空気の流れなのだろうけど、なかなかの個体差。

 なんだか良いことがありそうだという昨日のテンションだったら案の定そんなことが起こった。今度こそ行かねば。垂涎ものの本。まぁ世界が捉え方の問題だけだったら、都合の良いことは都合良く自分と繋げて、都合の悪いことは影響受けないように都合良く切り離してしまえば良い。対現象限定だと思うけど。行いとか対人になってくると、やや面倒な人になりそう。ここで言いたいのは、良くも悪くも自分が捉えている自分の性質に近いものは頻繁に起こっていると感じるけど、ほんとはそんなことはないということ。事象を大きくするか小さくするか、重くするか小さくするかは自在。

 ここ何日か人生楽しいなと内心にやにや(外にも漏れているかも)して過ごしているけど、自分の中には常に物理的にさっさと退場しないかなと考えている卑屈な奴もいる。日常においては頭も体も貸さないけど、こういう性質が哲学的疑義の源泉なのだろうとおも思う。前向きに生きるためにはこの性質を抹消しないといけませんって言われても絶対なくせない。ということは、自分の最小限はここにあるのかという気もする。別に誰から学習したわけでもないし、後付け感はない。思春期辺りとか、文豪界隈にはたくさんいたような気もするけど、不整合を不整合のままほっとくということはなかなか難しいのかもしれない。

 不整合といえば、睡眠を外付けにしていた時期もあった。近しい人と居ると寝すぎてどうしようもない。睡眠の外付けというより弛緩の外付けか。あれはなんだったのか。副交感神経が優位になりすぎる。免疫学の対談本で自律神経がうまく切り替わっていると免疫力が活性かするというのがあったけど、おそらく今の方が健康的ではある。やや無理矢理切り替えている感もあるけど。

 お弁当の時寒かったからすぐに食べ終わって、立ち読みで時間をつぶしたのだけど、どこか外国の哲学者の講義の本で「死について」っていうのがあった。自分がどこからどこまでかみたいな話があって、やっぱり皆考えるのだと思った。昨日の自分と今日の自分は同じか。肉体をベースに考えても、肉体も刻々と変化している訳で。死を想っても世界を想ってもそうしているのは自分だから、離れられない。まぁ多分買わないだろうな。今読みたい哲学本は、プラトンイデア論結構好き。

 自分とは離れらないとしても、僕が僕で良かったなと思うところがもう1つ。自分とは離して存在してくれてありがたい、嬉しいなという存在を想えること。別に関係しなくてもいい、というかしない方がいいし、自分にとって存在が物理的に利であることがどうでも良い。精神的に、魂的にどうかと言われると微妙なところ。嬉しいってとても良い言葉。最近お気に入り。

 それではおしまい。明日はおそらく鍋をつつきながら。ではお休みなさい。

 

 皆さん暖かな夜を。