自分の中身(後

感情の対象は固有だけど、自分が抱く感情自体は1つ。というのは感情の具合で思い出す記憶にバリエーションがあるから。他の人がどういう風に記憶と付き合っているかは知らないけど、記憶と精神バイオリズムは明らかに相関がある。

切なさは感情としてはかなり痛い部類だけど、痛さって悪いことでもない。それだけ対象に移入しているってことだし、これが生だし。その切なさを関係において武器にするとよくないけど。自戒。

この切ないバイオリズムで思い出す、生々しい出来事。結局僕が一番悪かったと歴史解釈をしている前提で。他人のプライベートなんて見ようと思わないし見ないけど、当時同棲していた恋人さんの携帯の中身だけたまたま見たことがある。その中には浮気相手との交信が記録さていて、自分ちの近くまで2人で歩いていて、バレたらやばくない? みたいな。僕はこれを見た時に、何を感じたかというと、怒りでも悲しみでもない、単なる空白だった。単なる空白の感情って在る。時系列は定かではないけど、おそらくその後、シャワー浴びていたその人に僕のこと好き? と聞くと好きって返って来たから余計にバグるし、時間を隔てて、然が傷つくのは知っていたのにって言っていたとか書いていて、更にバグる。じゃあやるなよと。

この人を好きになったことは自分の中では正しいと思っているし、僕では不十分だったから今はパートナーと幸せになっていれば良いなって思うけど、ここで人は可能性的な存在になったのだと思う。そりゃそうよ、人は自分が一番大事だから、誰かを想うことも自分の枠からははみ出せない。

言葉は信じるにも信じないにも値しないものだなと思ったのもここ。1つの転換期でもあった。でも信じるに値する言葉もある。それは、相手の通常営業と明らかに違う言葉。僕専用の言葉なんて望むべくもないけど、素朴な言葉というのは希少価値的に存在している。僕は素朴な言葉ばかり使っているけど。

で、物理的世界では、一番物を言うのは行動だとしている。好意の現実化は行動でしかない。物理的世界はかなり分かりやすくて、要は優先順位の話でしかない。物理世界は何を選ぶかしかないから。両立できるのは精神世界の話。

まぁこんなの分析してもしょうがないけど、自分に重きを置くのが正しい選択なのには違いない。選択しているっていう自覚はあってもしかるべきだけど。

僕は感情に現実を制御されないようにしているけど、感情が出るってことは相手を人間から個人に括ったのだろうなって観察している。切なさであれ好意であれ、この感情を刺激してくれてありがとうって。感情を刺激してくれる存在って希少価値。他の人はそうでもないのか、疑問。

やれやれ。こういった素朴な人間論から切り離された僕は、自分の中にある好意も行動で換算する。なるほど、こういう行為をしたってことは、それだけ相手に好意を持ってたのかと。

 

あと、全然共感されない感覚だけど、本が私だけとまぐわってればいいのよって言っている感もある。毎日セックスしているようなものだし。という文脈で言うと、文章が好きな人って、生身のその人が好きなのか、独立した文章が好きなのか定かじゃない。文章に対して統一感を持っているかどうかも分からないし。

僕は自分の文章は他人事にしているけど、一定の統一感はあると思っている。あくまで言葉の遣い方だけだけど。

 

 自己意識とは欲望だというヘーゲルさん。確かに分かる。でもこれが自己意識だとすると、果てない欲望にコントールされるだけの自分っていうことにならないだろうか。欲望は活力だけど、自分に利にならないことを想えるのもヒトではと。

 僕が手放しで人を好きだなって思えるのは欲望から離れられたからで、これが自己意識ではないと言われたら自分なんてどこにもないような気がする。

 

 良い夢を。