思考の坩堝

避難所

意味の意味

基本的にタイトルは後付けだけど、今日は先に決めた。

 

歯医者はちゃんと行った。歯石を削る機械も随分と進化したものだ。細いドリルで高い機械音。時々歯茎に当たって血が出る。歯茎から出る血に無頓着なのは、口内の再生力が凄まじいからだろう。唾液の凄さ。歯科助手さん、吸い込み口舌で塞がれて吸えていませんけど、って感じで技術的には微妙な気がするけど、歯石取りに集中しすぎて患者を咳き込ませる職人肌はなんとなく好感が持てる。この話は歯医者談義じゃなくて、歯を触られるとか理容院で髪に触られるとか、他人にしかできないことをされるのはなかなか気持ちよいなと。頭を撫でられるとか。まぁ撫でられるより撫でる方が好きだけど。深い接吻は声が漏れてくると良き。以下自重。

今日はシャツ類を洗濯した。あまり天気が良くなかったからシーツの選択は保留。明日晴れるかな。そうして、買い出し。お祝いのメッセージは送ったからケーキはなし。酔い任せで何送ったか覚えてないけど、見返した自分の言葉はとても嬉しそうだった。言葉に付加される非言語。それを読み取る術は誰も教えてくれない。帰り道、遠回りになるけど大通りの銀杏の葉っぱの絨毯がとても綺麗で、スノースマイルをBGMに鼻歌混じりでるんるん歩いて帰った。雪の絨毯ではないけど。あとのBGMはバックナンバーの雪が綺麗と笑うのは君が良いーってやつとか。

ところで、どっちからからかな。免疫学の本で英語の格言が出てきた。あなたは貴方が食べたもので作られている、あなたはあなたが考えたことで作られているという風に訳される言葉。なかなか良き。これを少し拡げると、どういう人に会って来たかだし、どういう環境に育ってきたのかだし。ただ、自分を創って来たものと自分を混同してはいけないというところ。自分はあくまで自分でしかない。今の時代、素朴に個人は個人で在るとされているけど、人格っていう言葉も人類の歴史上最近の発明である模様。まぁ身分制だった時代からすると人はすなわち身分であって、だからこそキリスト教の免罪符とか来世とかっていう考え方ができたのだろうなと。個人は個人であるべきっていう考え方をまだまだ使いこなせていないのが現状だと思う。まず、他人を属性で括らない思考形式が必要で、自分のことを考えるときもそう。果たしてこれを使いこなせるようになるのだろうか。

関わっている人から、この交信に意味があるのかって言われたのだけど、意味も発明品だと思う。もうちょっとわかり易く言い換えると、意味って効果だと思う。効果があることしかしないという手もあるけど、効果を何とするかってその人の生き様による。対価でも良いかも。要は、何らかの自分の利益になるかどうか。利益を例えば悦びとか嬉しさに設定すれば意味はほぼ無限になるけど、もっとピンポイントに物理的な効果に設定するなら、まぁバグるだろうなと。僕はこういう意味では無意味に生きている。

要は、意味を決めるのも自分だから、他人に意味を求める時点でずれているということ。相手にとって自分がどんな意味があるのかを考えることは有用だろうけど、相手の意味と自分の意味は絶対的にずれている。それが個人主義ということ。で、もっと素朴に考えると、自分の日常で全て意味あることをしているのかという話。明らかに意味がないというかむしろ反意味みたいな時間も使っている訳で。僕はこういう意味でも意味のないことに効果を持たせている。割と人が好きだから、階層が変わった人にも付き合っている感はある。

そういえば、橿原神宮は縁切り神社らしいけど、初詣からこの一年で随分切れた。連れて行ってくれた人でさえ。縁と意味を繋げると、縁は意味があるところにしかない。縁が在るかどうかを決めるのは当人。僕は自分から結ぶというより、相手が結んでも良いよって言ってくれる限りだけど。

この主観的世界論に科学が追い付いてきたらしい。量子論の話の実験で、客観的世界なぞないという研究結果が出たらしい。光子が観測者に影響を受けるということで、すなわち観測者によって世界が変わるとのこと。意識によって並行世界を移動することになるけど、個人的にはそんなこと知っていた。観測者である自分によって世界が変わるなら、観測者である他人が自分の世界に影響を及ぼさないはずがない。この軸で見れば、祈りはかなり効果がありそう。別に効果があるからしている訳でもないけど。

世界は意識を変えることでたやすく変わる。となると、思考だからどうでも良いってことにはならないなと、昨日の日記の修正。思考すら世界に影響する。ただ思うのは、なんで人間だけに観測者としての特権が与えられているのだろうということ。特権が与えられているように観測しているだけという説もあるけど。

自己意識の意味も効果にある。自分が自分であることを自明にすること。観測者っていうよりは支配者なのだろうな。。僕が素朴に思うのは、世界を変えるというより変えられるほう。僕の語彙の設定って、自分のものではない。想定的想い人の語彙の中で書いている。僕は1人だったらなんにも表現できない。自分を確立するための語彙は持ち合わせてないので。言葉を紡ぐにはどうしても観測者が必要。だいたいは自分自体を観測者としているのだろうけど、僕にはそれができない。ある意味依存だけど、これで自分が安らげる訳ではない。

 最後。意味の意味だけど、まずは自分の中で意味と無意味をちゃんと認識した方が良い。僕は、どうせこの一生しかないのだからとだいたいを効果に還元しているけど、普通の人はそれほど暇じゃないと思うので、効果がないと思ったらすぐさま僕との縁を切って良いと思う。それが主観的世界ということ。

 僕はそういう風に人を見てたのだけど、次は、人は言動ではないってところに来ている。言動じゃなかったらなんなんだっていうと、心。心には質量も重量もない。だからこそ、意味がある。

 

ということで、おしまい。

 

みなさんにとって意味がある人生でありますように。