自分返り(後

 ここでも書いたか分からないけど、対面で何人かに話しても全く通じなかった自分の性質。相手に人格を合わせてしまうこと。なんとなく場を繕っておくとかじゃなくて、思考とか想起とかも全く起こらなく現象。だから場では楽しめるのだけど、帰ってくるとなんだったのだろうと思っていた。今はそんなことはあまりないけど、実家に帰ったらまだなるだろうな。

 決められた自分と決めた自分の鏡としての他人という観念はあるだろうけど、僕の場合、これは素朴な自分から見ておかしいよなと思うことすらできなかった。やっと自分になりつつあるって折りにふれて書いているのはこういう意味。

 自分を遡ると、ずっとこんな奴なのだけど、普通はこういうことなのかっていう環境に合わせて人格を規定していたのだろうなと思う。素朴な自分はそんなこと本当に在るのかってところに居る。毎日祈っている奴なんて居ない。

 

こんな話はどうでも良くて。

 

 やっと本題。今日考えていたこと。

 人が何かに重きを置くとは何ぞや。恋愛感情でも使命でも義務でもなんでもいいけど、何をもって自分が自分以外に比重を置いているとするのか。当たり前なところからすると、現実的な資源をかけることをもって自分がそれに重きを置いているとする。一番はお金じゃなくて時間なはず。ただ、この現実的時間とかお金って、何にかけても一律に消費するもので、これが多いか少ないかで決めるとすれば、単なる量の問題になるけど、これで自分を傾けているということにしてほんとうに良いの? 

 自分が重きを置いているかどうかを量に変換することはとても簡単だけど、量で表現されることって、きっと固有ではない。この世界だと、交換しないことが不義になる。勝手に時間をかけたのに、それに対して返って来なかったらバグ。この考え方を仮に消費ベースと呼んでみよう。

 では、質的だとどうなのか。現実とは関わらない部分を質とするなら仮想空間で気持ち良いことも質に含まれる。仮想空間の時間も現実の時間と変わらないから消費はするけれど物理的には指を動かすだけだから、費やす現実は圧倒的に少なくて、これも心を傾けているとは言わない。

 僕で言うと、言葉とか概念とかと時間を費やしていちゃいちゃしているし、現実的なところだと料理とかに時間を費やしているけど、これで自分がこいつらに重きを置いているとはならない。

 個人的には重きは軽き。折りにふれて思い返してしまう物事とか人は何も消費してないけど、消費してないからこそ心が傾いているとみなす。要は、現実的に無意味なのに、思わずにはいられないことの方が、素朴な自分が大事にしていることだろうなって観測する訳。

 もちろん、この大事って自分の中での大事でしかなくて、この大事が必要十分ということ。大事さの共有も良く分からない。自分の感情と相手の感情の一致ってどちらの感情も他人用に変換された後のものなのでは。僕は自分の感情は自分のものだけのもので、別に繋がることは求めていない。繋がることを求める人に対しては自分に在ることで部分をすくって呈示してみるけど。

 結論。重きを置いているかどうかは一般化できなくて、当人の中にしかないからそれを返してくれって言う人が居るとすれば、その人は貴方に重きを置いていない。

 

 では、おしまい。

 

 みんながちゃんと睡眠時間確保できますように。