えこひいき的人格論

切り替えが上手くいかなかったから1日だけ延長戦。若干金曜日気分でセプテンバーさんを歌いながら帰ったけど(高速道路の真上が大声出せるスポット)、頭の中では指切りげんまんが流れていた。どちらも良い曲。お互いの胸の中にそっと。

 さて。土日の話。麻雀大会は思ったよりも大会だった。プロも来ていたし。まぁ成績の方は、場の状態がダイレクトに反映されていた。計算が甘い、皆で点数を見るところだとまぁまぁ強いけど、完全に自己申告の卓だと自分の手牌の点数があやふやだからなるべく上がらないようにしていた。まぁそんな細々したことはどうでも良くて。誘ってくれた人が生き生きしている所を見てその新鮮さが美味しかったなぁと。奥さんが協力的な感じも良い。ハーフの静かな美人だった。しかし、麻雀は凄く疲れる。手も頭も使うし、知らん人ばかりで神経も使う。まぁ、完全アウェイの方が結構楽しんでいる気がする。自分を知っている人が居ない空間の気ままさ。まぁのめり込むことはないだろうけど。優先順位の違い。

 そんで飲み会。良く飲んだし、ダーツとかもしたりしたけど、正直なんとも物足りなかった。何が物足りないかというと、名詞でしか話がないところ。名詞っていうのは事後に森博嗣さんのブログで見た話。ある程度プライベートの話題もあったけど、人が気にすることって趣味っていう名詞なのだろうなと。もっというと目的格。ほんとに相手に興味を持っていたらこういう聞き方しないと思う。名詞を聞いて相手のことを知ったつもりになれるということは、自分のことも名詞で把握しているのだと思われる。

 まぁでも、名詞がその人の物理的肉体を創っているというのは確かにあると思った。糖質オフダイエットしているとか言っている人の注文が炭水化物ばかりとか。僕が細いから食事はどうなんだって言われて、ほぼ完全に自炊しているだけですって言ったらすげーって言われたけど、体質ですって答えた方が良かったかもしれない。太りそうなものを好かないように調整したというか、もともと太りそうなものが好きでなかったと発見したというだけ。空腹感も、特に中身に影響しない。のは日本で経験できる上の方の空腹感を味わったことがあるから、というのもある。もやし1週間生活とか。

 でもなくて、僕の他人への興味って、箇条書きにできることではないなと。その人が今何を目的にして生きているかよりもその人の構成物が気になるし、その人が遣う言葉の背景とか定義がどういう風に創られたのかとかのが大事。この前京都に行った話をしたら、自分が撮った紅葉の画像を見せてくれた人もいたけど、こちらの方が分かり易い。写真自体は物質という名詞だけど、この構図で撮りたかったっていう動詞があるから。それに、写真には誰かに見せたいっていう感情も付加されているよね。表現としてとても良き。

 思考の交換が一番良いと思うけど、思考を話し合うって原理的に難しいとも思う。想いを語り合うならカップルだけど、思いと想いは違うし、思いの中には相手のことを否定したり攻撃したりすることも含まれてしまうかもしれないし。僕は僕のことを思っている人が居ればその人を無条件にえこひいきしたいところ。想いは当人が主体だけど、思いは当人も第三者

 そんな感じで、日曜日は圧倒的孤独感的な二日酔いだった。吐くことはなかったけど、顔のむくみが半端なくて、まどろみの一日。食べたくなるのは炭水化物で卵かけご飯とバター醤油ゆかりマヨパスタを摂取した。

 この辺りに共感できる人は友達になれるけど、とても生きづらいだろうと思う。ちなみに僕はとても楽しんでいるけど。孤独とか寒さとか感じる方が健全なのが人生。目的格に依存して対処療法はできるけど、受動的である限り自分は救えない。別に救おうと思った訳でもなくて、自分が素朴な自分になるためにはどうするかを分析したらこうなった。

 この文脈における関係とはなんぞや。関係なんてないっていう説は確かに正しいのだけど、それは関係が客観的に在るものだという前提が真理とする限り。僕の主観だと、関係とはえこひいきでしかない。「僕」が言葉を投げたいと思える人が関係だし、相手が僕のことをえこひいきしてないと読み取れば、そうそうに退散しようかなと思う。えこひいきの定義も難しいところだけど、規定値の外に言動があるかどうかかなぁ。僕は自分の規定値を自縛していないから参考にはならないけど。

 そうして、冒頭のゆびきりげんまんにもどって来て。

 

 僕は、この歌の感覚にとても近いところで生きている。約束は交わすものじゃなくて当人の中で決めること。えこひいきするかどうかは自分がそうしているからであって、相手が

自分のことをえこひいきしているからじゃない。飴玉の唄的に言えば、裏切られることはない。裏切りは期待が前提だけど、別に他人に期待していないし。

 

裏切りがあるとすれば、それは自分の目が疎かっただけ。

 

最後。

 

人の知覚の歴史を見ていると、現代が完成形とはとても思えない。今は視覚が圧倒的に優位だけど、視覚偏重は錯覚に陥る訳で、これって歴史上目新しくない、自分の心も目に見えるものだとしているかもしれないけど、目では足りない。全人格的に心を観測してみると、よくないな。

 

何をもって自分とするか自明なようだけど、どの知覚を重視するかで自分すらころころ変わるので。

 

おしまい。

 

皆さんが暖かく寝られますように。