定義としての自分

 滞りないけど、なんだかペースが乱れている。まぁ一定のリズムを刻みだすと唐突に動かしたくなる。それが壊す方向だろうと。でも他人を巻き込むのはよろしくないなぁ。ペースの乱れの原因はきっと土日にある。楽しかろうがなんだろうが人と接すると崩れると。だから人との関係をどんどんと切ってきたのかなと。他人事感が増す。まぁそれはそれで良かろう。外的リズムと内的リズム。人と継続的に関係できる人は関係で自分を乱さないように調整しているのだろうな。まぁ、主観が確立されていれば当然か。

1人で閉じた世界を構築しているから、どうあっても関わるとずれるのは確か。ゆったりして受け入れるように見えるから随分と都合良く使われたのを思い出した。大学時代に大学の知覚で独り暮らししていたからかなり浸られていた。限界越えてやっと断れた。断ることができないっていうのは絶対的な自尊心の欠如と、受け入れ口の広さの併用なのだろうなと。そういえば土曜日の飲み会でも、誰かが頼み過ぎたバニラアイス食べていた自分。同期が何でも受け入れる人だなぁみたいな発言していたのも記憶にある。

好き嫌いはないし、自分の時間の使い方は他人との間では適用されない。3時間くらい待たされたこともあったな。本質はちっとも変っていない。告白を断らなかったのは断ったら申し訳ないからで、相手のことを好きになろうとしたらすぐ振られるし。これってまぁ僕が悪い。相手の中にある僕像と僕自体がきっとずれて、そのずれは僕像の外だったというだけ。

ここで学習したのは、人って自分が思う相手の像をすぐ決めていて、その像を基に関係しているのだろうなというところ。約束とは相手を拘束することにある、みたいな。要は、誰も特に僕のことを見ている訳でもないのだなと。となればこれを鏡にして同じように相手を等閑に扱えば良いのだけど、そういう訳にもいかないらしい。改善はしつつあるけども。

そうして、僕の価値基準が自己選択とか可能性になっているのはこういうところにある。自分が決めたことは、何にも拘束されていない言動であってそこに期待とか対価は付属されていない。自分にとって都合が良い人なんて求めていないし、自分にとって都合の良い世界も然り。他人像も暫定でしかない。むしろ外れたときになんで外れてくれたのだろうという思考になる。

人が人を見る手段って、自分に開示してくれた言動しかないからそれしか出せないと思われたらその人は閉じてしまう。世界の限定。僕像だと、下心がなく見えるのであればそれはそれで良く見てくれているなと。あと、開示しても付き合ってくれている人は貴重だなと思って選んでいるけど、最近選ばれてないなと思ったりもする。僕が選んだとしても選ばれてなかったら一方通行だからじゃあ遠慮しようかとなる。この選ぶの定義は当然僕だけをという意味ではない。

 自分の価値観が何に依拠しているかというのは五感の何に重きを置いているかによるらしい。現代社会だとだいたいは視覚なはず。文章だって見るものだし。皆さんどうだろう?

 目から取り入れる情報って圧倒的だけど、音楽を聴くなら聴覚も捨てがたいし、触覚が一番現実的だし、味覚もなかなか主張してくる。そうやって採り入れた感覚が自己意識を形作るのだとすれば、どの感覚も正解だけどどれかだけでは正しくないような。

 じゃあどれが正しい自分なのかって分析するなら、自分が何を気にするかをもう1つ上から見てみれば良い。見てくれが大事なことがほとんどだろうけど。僕はというと五感は全部等しく大事。でも統合として在るのは、言葉というか文章だと思われる。言葉をどう読むかって、五感をフルに使う感じ。言葉の手触りとか味とかリズムとか。だから人に対しても、言葉ありきみたいなところはある。現実的にどうかと言えば行動も含まれるけど、これって僕がどうかっていうより相手の自分に対する約束の話であって、僕は関係ない。僕の為にやっているって言われても、それはあなたが勝手に自分と約束しただけだろうと。これは祈りと直結している訳だけど。勝手にやっている自己選択であることが自分。

 本を読むことは自分の枠の中で納まらない。いちいち影響されるし思考が延びるし。趣味的に読む人は、たぶん本との関係が規定された枠の中のもので、自分が面白くなければ読まないということになるのだろうけど。では、僕の文章はどうなのかというと、思考を刺激するまでには至らないだろうな。まぁ別に至るように書いてないけど。

 森博嗣さんが、思考の速度は書くより圧倒的に早いから思考を文章にしたらほとんどが捨てられることになるって書いていたけどまさにそう。言葉はどれだけ早く書けるようになっても頭の中には追いつけない。だから良きとも言えるけれども。

 では、また明日。

 

 

皆さんがほどほどに満たされますように。