ルール

 二日目にして引きこもり精神が凄い。麻雀の誘いとか親からの催促電話とかスルーしている。電話の方は一応返したけど、なるべく関わりたくない。お前だけは味方で居てくれという言霊の呪いはなかなかしんどいところ。失踪宣告制度使えないかなぁ。母親は言葉を呪詛のように使う。そういえば、姉も妹も結構そういう傾向あるような。呪いと祈りは紙一重。僕の時系列でも呪詛的に相手を縛ったことがある。だから自分が人と関係することが好きではない。

 時間をないものとすると、完全に矛盾する正反対の感情がどちらも自分のものになる。会いたいけど会いたくないではなくて、会いたいし会いたくない。自他を煩わしくするなよと思うけど、それはそれで仕方なく。現実化したかどうかという空間的な考え方も意味がないとすれば、もはや自分を決めるのは自分ではない。

 ところで、僕は料理を栄養補給とは捉えないようにしたのだけど、我が家の食卓が全然思い出せないことに気付いた。確かに味覚的にはちゃんとしたものだったのだろうけど、非言語が全然感じられない。帰ると寒々しい意味がなんとなく分かった。何故自分の感覚を信じられなかったのだろうという後悔とともに18歳までの人生がある。僕の人生18歳以降もっと笑っていたはずって評した人が居たけど、もっと前からだったような。この人は孤児院育ちで家族に対する理想があった訳で、自分のフィルターでしか人は見られないし。

 僕の人生の話なんてどうでも良いだろうけど、僕の人生には結構預言者みたいな示唆をしてくる人が多い。その人たちは全員離してしまったけど、本の師匠は、いつか貴方は公に文章を書いている気がするみたいなことを言っていた。この予言は救いではある。

 何かを追求することには何も循環的、還元的な意味もないし、僕は誰かの役に立っているわけでも僕が僕の役に立っている訳でもないし、僕の本質は何もかもどうでも良いと思っているという一端がある。まぁ、誰かの役に立ったから生きていて良いのだとも思わないけど。生の定義を自己保存でも捉えられないし、他己保存も然り。観測者としての自分が存在するだけでノイズだろうなという人生観。悲観じゃなくて客観。

 さておき、ウェルベックも凄い物理学講義も河出書房だった。僕の中では新参だけどなかなか良い本出している。海外の本の営業取って来たのだろうなと想像するけど、もしかしたらサイモンシンのフェルマーの最終定理もそうだったのかも。

 なんだか絞り出すように書いているけど、たぶんこの辺りが今の暫定的僕の根っこなのだろう。ちっぽけ極まりない。こういう極小な世界で生きているから、他人のことを馬鹿にするような観念がない。ただ、僕を当人の範疇に含めようとした人に対してはかなり攻撃的になっている時系列。未知対未知だったらゆったり反応するのだけど、量的に見られたら鏡として反射する。

 ここで量子重力学を持ってくるのだけど、時間も空間も量子が影響し合った瞬間にしかないとか。僕は素朴な実感としてこういう風に思っていた。他人の中に居る自分ではない自分像とか。僕の中に居る他人さんは、僕の予測を越えてくれた方が有り難い、都合の良い存在ではない。

主観に引き直すと、時間は客観的にあるのではなくて、自分が意識できる事象の間にしかないということ。時計をずっと意識している訳でもなし。

 

これって、時計を基準としているけど、ほんとに基準としていたら寝坊もない訳で。

僕が寝坊するのは他人の時間で過ごした時だけ。

 

時空間は関係にしかないという最新物理学が解明した捉え方は、僕が素朴に想っている感覚と近い。影響としてしか事象を捉えられないのが人。例えば自分と全く関係してなかった高校時代のクラスメイトの名前を言えるかどうか。僕は言えるけど、これって記憶力とは別の事象。自分にとって良かった悪かったとは関係ない人の方が覚えている。というのは言い過ぎだけど、これって僕にしか開示できなかったのだろうなっていうことは。

 

下心がないっていうのもある意味ノイズで、直近の元恋人さんには悪いことしたなと。

こうやって悪いことばっかりしている。単なる観念的存在になりたい。

 

ではおやすみなさい。