どうでもいいの中身

相変わらず電話はスルー。面倒だ。ただ、昨日の日記に書いていた食卓の会話を思い出せないというのは、食卓が冷めていたというより、単に言語野が未分化だったというか、人格が未確立だっただけという気もする。どれくらいの記憶が残っているかって精査してみると言葉に関する記憶って、どれだけ残っているか、万までは絶対行かない。というか言葉以外の記憶だってそんなもん。だから、過去と自分の結びつきによって自己観を確立するという概念はちっとも分からない。むしろ、過去との結びつきは、意識できる自己ではなくて、後天的に条件付けられた好悪の感情とか反射の方。確かにこれを自己観として固定するのであればニュートン的世界観だけど。

ともあれ。ひきこもり三日目。食生活が偏っている。どうでも良くなると炭水化物に逃げる。卵かけご飯とかオリーブオイルと塩コショウとチーズを混ぜただけのパスタとか食べている。明日は野菜ときのこたっぷりの味噌煮込みうどん食べるか。食に対する優先順位がとても低い。優先順位とか言い出すと僕は僕のことが心底どうでも良いのだろうなと思うときが多々ある。

このどうでも良いは、自暴自棄でも自縄自縛でもなく、自分に囚われないという意味で、一般的などうでも良いとは違うのかも。考え事をし過ぎるのはよくないって言われた経験則だけど、僕は考え事で円圏脱毛性になったことはないし、閉じた思考みたいなことはしていない。考えるという概念がどうも違う。閉じた思考なのかって思っていたけど、これも不器用と同じで、自分の考える範疇で相手の考えるを定義しているのだろうなと。優先順位の考え方もきっとおかしい。優先って、自分の有限の中でどれだけ傾けるかという話。

ヒトって、他人を含め対象に傾けていると思い込んでいるけど、結局は、自分以外はどうでも良いっていう前提がある。隠れた前提。問題は、このどうでもよさを権利とか義務とか道徳で虚飾していること。だから人を想うことが相手の為になると勘違いしているのが嫌。

例えば、誰かに会いたいとか、帰省してこいとか、連絡ないと相手の存在も把握できないというのは、当人の世界の価値の話。母親としては僕自体じゃなくて、物理的に知覚できる僕の方に価値がある。これって文字に起こすとなんか変だになるけど、普通の人が普通に行っていること。知人の価値は会っている時の方が重いのか。

会ってないときの相手のことなんて相対的にどうでも良いと思っている気がする。そもそも、おそらく考えなくて良いことで省エネできるから会うことに重きを置いているような。あとは自分の欲求を満たすっていうことにあるだろうけど、結論は、戻ってきて、人のことを物理的にしか認識できない訳で、その認識のために他人の時間を奪うことはどうでも良い。ここには自分が使っているのだから相手も使うべきとしているのではという概念がある。

もう少し掘り下げると、好きだったら(ここはもっと広い関係性に言い換えても良い)、相手は自分の為に費やすべきという概念もある。この概念って資本主義に侵されているというか、日本の義みたいなところの鏡面な気がする。交換が多かったら相手と仲良くなっているという観念が共通ルールだったら成り立つのだろうけど、僕はそういう観念で生きていない。

自分が認識している世界が客観的世界説をまず放棄したほうが良い。と、主観的には思う訳だけど、啓蒙はできない。不快とか不自由がなんだかんだ心地良いっていう人も居るし。ここに他責性の概念がある。

誰かとか何かのせいにするって思考コスパが断然良い。でも、世の中には、この思考コスパショートカットできることが大人だと思っている旧世代も多くて。あと、知っているか知らないかの知識。僕が絶対忘れないのは、3歳くらいの叔父さんの結婚式の時に皿をなめたらしく、それを事後に笑い者にした母親さん。

知っていることを武器にはしないようにしようと自戒する。ということで、僕は知っていることはどうでも良くて。僕が知っていることを相手が知らないことに自己満足は得られない。だって、相手の方が知っている領域は確実にあるし。たぶん、ここで子供を下に見ているのだろうなと認識して、下手になってコントロールする自分も嫌だったのだろうな。

他人はコントロールできないっていうのも真ではなくて、ある程度はできる。というか、普通に皆していると思う。どれだけ自覚があるかという水準の話。

 ここで学問の話。中学数学の参考書をぱらぱらめくってみたけど、求めている本には出合わなかった。だいたいはまだ解けそう。けど、解けることに意味を置いていなくて、なんでこの自然科学的な概念が生まれたかが気になる。

 そうして、人間関係も量子学でやや鮮明になってきた。人は基本的に自分に影響がある人がある人しか観測できない。良いも悪いも含めて。で、影響の定義は、ほぼ物理的な自己定義に依っている。自分にとってどう見えるでしか世界は知覚できないことは僕にとっては当たり前の話。だから影響範囲で相手に観測されている時に知覚がぶれる。

 僕は自分にとって都合の良い存在なんて要らない。何故なら、どうでも良いけど誰に承認されなくてもいい自分は一応在るから。仕事の時に承認されて嬉しがっている自分も観測できるけど、これって条件反射なのだろうなと思う。

 だからこそ、僕が求めるのは、共通項がなくても想える観念。意味分かるかな。共通項がないことって、普通は世界の外。つまりどうでも良い。

 

ここまでか。

 

ではおやすみなさい。