世界観

 やっとこさ引きこもり生活にも慣れてきた。朝はちくわと卵とねぎ丼と大根ときゅうりの浅漬け、昼は春菊としめじえのきとちくわの味噌煮込みうどん。夜はカキフライとブロッコリーのサラダと大根を太めに切って食感重視の浅漬けとうにクラゲ。日中は会社法の裁判例をカタカタ整理していた。自分の理解力のなさに辟易する。ほんとに僕は疎い。高校時代、数学の練習問題を回答含めてただ書き写すという勉強法をやっていたのだけど、おそらく僕にとって一番の修練方法だった模様。

 ともあれ。思うのが、1人暮らししていてもほんとうに自発的な時間を過ごせるのはほんのちょっとしかない。仕事で8時間過ごせるのはそれが義務であって対価があるという社会的前提があるから。自分の時間というのは、自由な時間を惰性の時間から切り離して創り出さないといけない。義務がないところの時間と義務がある時間とは質が全然違う。

 時間を社会性に結び付けるのが、現状の一般的価値観だろう。だから、義務的な時間と自発的な時間の流れ方は違うのに同じようにしてしまう。社会的時間は客観的な時間だと。統一的な基準としては有用だけど、これって多分当人の個人の中の時間的流れを無視している。トイレに行くことすら億劫になる感覚は社会的時間の流れへの抵抗ではなかろうか。

 というところで、休日であれば自由であるというのはおかしな話で、むしろ何も束縛がない状況では、自分で時間を調律しないといけない。4日かかった。明日からはもっとコントロールできると思われる。

 でも、いとこからもいつ帰省するのですかというメッセージが。そんなに僕に会いたいかよって。この会いたいって、社会的惰性的な空間の中であって、ほんとに会いたいなら会いに来いよと思う訳で。自分の時間の中でしか邂逅しないのに、それが他人を想っていることに変換できることは社会的経験則であってこれが他人のことなんてどうでも良い癖にと個人的に考える。好意とか善意は習俗の外にある。

 こういう時間軸で考えると、人が他人と生きたくなるっていうのは時間に共通項があることではという発想。同じ時間を生きているという実感の為に人が集まる。本当は他人を規定し他人を規定するというループの中の共通項の為という説だったのだけど。自分の中に居る相手と相手の中に居る自分の一致。僕はどうもこの輪の中では生きられないらしい。

 人ってある程度人格が決まったら、その後に欲するのは自分の認識に一致する現実であって、新しい認識は求めるに値しない。もと友人も規定値としての自分しか求めてなかったのだろうなと。今何をしているかではなく、たまに集まって過去の時間を語るのが良いって言っていた。規定値を越えた人だったのだけど、規定値を越えることなんて何の意味もないしね。まともに生きる限りそんなジャンプは不必要。

 ところで、ウェルベック氏、村上さんの似ていると思ったって評したけど、そうじゃなかった。なんだか文体がかくかくしている。口淫(知らない人は調べないように)の描写がでてくるけど、必要だから描写している感はない。あえていうと白石一文氏に似ている。エゴ的文体。村上さんの小説は、絵画的。なんというか静的。音楽とも近そうだけど。それの最終形が世界の終わりとハードボイルドワンダーランド。女性とのまぐわいの描写では、水滸伝の方がはるかに情緒的。あんまり書くと僕の性癖が露呈するからやめておくけど、いや、やめておこう。好いてない人に好かれてしまうかもしれないっていう観念は、これも良いか。

 最新物理学だと時間も空間もないということで、こっちの方が個人的感覚にはそぐう。時間も空間もない世界とはどういうものかということは直感の中にしかないけど、いつ、どこでという記憶が圧縮されているというか、その客観的指標は関係ない。記憶を喚起するとき、それは通り過ぎたものだっていう中間的な基準が時間性だけど、それを取っ払っている感じ。いつかじゃなくて、今その知覚を再現している。今しか現実がない。そもそも現実に重きも置いていない。

 現実って、おそらく既知の認識が証明される証拠としての事実だと思われる。たとえば懐かしい人と会うとか、別にその人の生活を想っている訳ではなくて、自分の過去と現実を一致したいだけでは説。

 僕の現実論は新しい認識を得た瞬間としている。二日酔いも知識も仕事も別に現実ではない。新しいことっていうのは、予測の外でも良い。もっと言うと、時間も空間も現実もなくて良い。通常の現実論って誰かから決められた規定だし。

 これを踏まえて、僕が誰かに会いたいって発信するとき、僕は自分が創った主観的時間をぶっ壊しても良いと思っているし、自分が相手のそういう時間性を壊してしまうノイズだとも自覚している。だから自分が相手を想う気持ちが嫌。

 実家に帰ると少なくと三日は乱される訳で、この三日にどれほどの価値あるかと考えると到底無理。個人的に助教授の叔父さんには興味があるけど、この興味で話す為には、場じゃなくてタイマンが必要で、相手が甥として規定しているのであればその交信は不可能で。僕がポンコツなのは、情っていう観念がないこと。というかむしろ僕の情は自分の為にはない。

どうでも良いけど、個人の前に属性があるっていう説。確かに分かる。僕にとって男女はほぼ等価だけど、男の方が傾向的に人の話聞いてない。基本的に人って話したがりだから、たぶん自分の話を聞いてくれるかどうかで人を判断しているのだろうけど、僕は別に自分の話を聞いてくれる人が好ましいと思っている訳でもない。僕が好ましいと思える場は肯定ではない。

量子は影響の中でしか存在しないっていう物理学は、人間に引き直してもありだと思われる。人間の現実の最小単位は物理学とか化学ではなくてその人。客観的世界と思っているのは主観的世界の影響でしかない。世界が不都合だと思うのは、自分の規定が不都合を前提としているから。

他人の世界から見ると、僕の存在はノイズでしかない。このノイズが良きものであれば良いやっていうのが祈り。主観的世界で見れば僕はいちいち他人に影響を受けるから、その意味でもノイズ。影響を受けるのは想っている対象だけだっていう世界観からもずれているし。

自分を想っている指標を何にするのかは人それぞれだろうけど、一番は、自分の為に相手の世界から外れたことをしてくれるかどうかじゃない? 違うかな。違うか。

 

ということでおしまい。

 

良いお年を。