従属

 色んな料理にちょろちょろ入っている粒コーン、昔は嫌いだったけど特に気にならない程度には好きになった。単純に甘いおかずは白ご飯に合わないという基準があって、この基準だとかぼちゃの煮物とかさつま芋の天ぷらとかも駄目だった。今は駄目とは言わないけど、あえて食べるものでもないなという感じ。単純に糖度が高い食材って食べるタイミングがない。人参も相当甘いけど、とか言い出すとピーマンとか大根も十分甘いし。あんまり体に合っていないのかも。

 体質もある程度は調整できるだろうけど、肉の器は精神の器ほど自在ではない。

 さておき。今日はだいぶ遅い。夜更かし傾向。帰省するとかどうという話でなかなかのストレスを自覚しているけど、これは別に相手のせいではなくて、自分が抵抗している摩擦でしかない。何々という状況であれば何々するものだというショートカットがどうも合わなくなってきた。自分を縛る分には問題ないと思う。それが社会だと言われたらそうなのだろうけど。もっと強くならねば。

 どうでも良いけど、昨日の夢は、姉が運転する軽トラの荷台で姉の知り合いらしき未知の女性と話をしていた。姉の知り合いとか現実で在ったら最悪のシチュエーション。伝聞形式で僕のことが伝わることがとても嫌。ある意味ではトラウマクラス。集団が嫌だと思うのはこういう相互監視みたいな構造があること。まぁ今やコーンみたいなものだけど。他人像の伝播で信頼性を高めるってなかなか原始的な作法のような気もする。

 像の伝播って生きている人間だと分かりにくいけど、死んだ人だと分かり易い。父親が亡くなって、2年後くらいかな、きょうだい(姉弟妹)3人で記憶を持ち寄ってどういう人だったかみたいな話をした。全然参考にはならなかったけど。

 要は、その人ではない他人からの伝聞も像の構築に寄与するということ。僕は僕に見せてくれた姿しか参考にしていない。それが相手からどんなに近い人だとしても。これは経験則とかの無意識から獲得したものではなくて、自意識の話。我が家の家庭環境なんだかんだ言って割とやばかったのかもしれないなぁと俯瞰的に想う。ただ、僕もそのやばさを利用したくらいの狂人だからなかなかややこしい。相当なサイコパス具合。

 ともあれ。新年からやたらと辛気臭いな。

 像は何処まで個人で在り得るか。個人は属性よりも前にあるとは言うけれど、なかなか難しい。本当の所は、社会とか経験とか本能とか諸々の無意識を加味した上でしか個人は把握できないが暫定的。

 というところで、僕は男と女のどちらが好きかというとそりゃあ後者だなって思う。これは本能かというとまた別で、刹那的に関係できるという意味ではあんまり変わらない。けど、どちらの属性に僕が素朴に関係できるかというと。小説だととんとんになる。

 ある意味運命論の話だけど、ルックスとか精神性で、なんとなく他の人にどう扱われるかは社会的に決まっている訳で、この階層だと僕は割とちやほやされている階層だった。偏差値でいうと62くらい。だから、どの社会でも女性が敵になったことはない。別に味方になったこともないけど。偏見だけど、男の方が圧倒的に質悪い。プライドとかの面で、相手より優位な思考を示してはいけないみたいな無意識の蓄積がある。自分の枠の中で優位に立ちたい先輩が多い。

 だから僕は女性と接する方が楽。女性はあんまり他人を決めない。あくまで傾向としてだけど。同性だとどうしても自分と比べてっていうことになるのかね。

 凄くずれた感情だけど、ひとかけらも恋愛感情がない関係が、趣味とか仕事とか義務とは別に成立すると思わない観念がある。この辺りにあるのが純粋な好意であって、これは理容できない。別に返信する義務もないのに、あえて自発的に発する意味。

 気まぐれで充分。

 というところで、どうでも良い相手と接している時、思考が制限されるという意味分からないだろう観念の中身がやや開示されたと思われる。そもそも、思考って1人でするものですし、全部相手に言語化できるものでもないから、特に聞いてくれる人を求めている訳でもない。だいたいの人は自分の話を聞いて欲しいから需要と供給の割合で希少価値がある。好きだから聞いてくれると勘違いされるけど、別にそうでもない。結局は自分が求められたように求めることができなくて僕を切ることになる。

 共通項がない他人とどうやって継続的に過ごせるか。なんて普通は無理で。

 次なる観念は、傾注している人と直に会うことにそれほど価値はないということ。もう、会いたいなって思えるだけで完結している。それだけで幸せなこと。そこに自分が参加したいと思うのはノイズだわ。直に接触した時にしか価値がない人なんてそんなにヒトではないだろう。

 それでも会いたいと思うことは、自分の欲望の発露ではなくて、ただの概念。そういえば、欲望は言語化されているらしい。どうしても欲するという意味なら、僕は何にも欲望していないなぁ。欲望の形は文化による。スマホは欲望的に水没させたい←

 僕の世界では、僕のことをとっくに忘れている人も観念的にはえこひいきしているけど、僕を当人の観念の枠で縛ろうとする人はえこひいきできない。他己承認はなんのエネルギーにもならないので。というか、ぶっちゃけ関係なんてほとんど素朴なエネルギーとはなっていないと思う。なるとすれば、当人が、エネルギーとすると決めるかどうか。

 既存の関係ってほとんど消費に向いているような(偏見。

 

ではおしまい。

 

皆さんが自分の迷宮に迷いませんように。