知ったかぶり

 近所のスーパーが営業しだしたから海鮮系を食べようと思って眺めたのだけど、刺身ではなくて手巻き寿司の具だったから断念した。代わりに鯖缶とチーズを買って玉ねぎとトマトときのことグラタン風。トマトは熱を通すと味が変わって良き。味噌汁も好き。

 昨日の日記は読み返す気もしないけど、偏差値62は言い過ぎ。せいぜい55くらい。あの話の結論は、人は人が他人に接している人格は観測できないというというものなのだけど、そこまで書けたのかな。恋人が友人と接している人格も分からないし、要は人の全方面的人格は把握できるものではない。まぁこの発想は僕のオリジナルではないけど。本からの受け売りでもない。直に言われたことがある。少し意訳しているけど。

 精神と肝臓の状態はまぁまぁ異常だけど、本を読んだり資料をまとめたりしていると落ち着く。本を読めとも勉強しろとも言われなかったことからすると、自発的選択と思わせて消極的選択でしかないのかもしれないけど、本当とはなんぞや。

 ほぼ人でなしみたいなところで年始を過ごしているけど、なんだかもう少しで掴めそうな感じがする。この連休で物理学の本も読み終わるし、数学の本も3年前くらいに買った虚数の情緒っていう辞書くらいの分厚さの本を読み返している。客観的な世界観はここから創られているのだろうなと。あと、共通感覚論と、人はなぜ腰痛を選ぶのかと、歴史とか。

 元禄文化が憂世っていう厭世観から浮世に変わったとかとても良いなと思う。世界史は割と合理的に発展しているけど、日本史はもう少し遅々としているというか、おちゃらけているような。合理的なことが良いとか論理的なことが良いというのも輸入で、合理的って理性的に考えられているように思うけど、結局は欲望の最短化でしかない。いや、欲望の最短化は別に悪いことではない。けど、なんだか人間の無駄遣いなような気はする。欲望を最適化するって人間の固有性でもないし。最適化をコントロールできるようになれば固有だろうけど。

 そんで、新たな認識。情報とはなんぞや。広辞苑的な定義を知っている人はいっぱいいるだろうけど(僕は知らない)、科学的に定義した人がいるらしい。曰く。現実に起こり得る選択肢の総数らしい。とても面白いと思った。つまりあるかないかであれば情報は22の情報を大事にしているのが日常生活なのだろうな。関係ないようで繋がったのが憲法表現の自由を何故大事にしているのかというところで、ある学者さんが、人間は情報の動物だから、情報の確保のために表現の自由があるのだというところ。これを組み合わせると、現実に起こり得る思想の数を増やすために表現はなるべくあるべきという観念。拒絶する表現があるということ自体がその人の頭の中を拡げるということ。観念が狭まった世界ってある意味普通の社会だけど。気持ち悪いものがあるって感じることができること自体が表現の自分の恩恵としての拡がり。

 自分が経験したものしか現実でしかないというのは、自分が得た情報、起こった現実を前提にしているのだろうけど、これは1つの閉じた世界だと思う。僕は自分が無関係な情報がとても好き。新幹線とか高速バスの車窓から眺める街並みとか干してある洗濯物とか畑とか、誰かの欲望が現実化して組み合わせたものが世界を創っているのだなぁというところが。客観と主観の逆転の話は書いたと思うけど、この客観的世界があることが気になるのではなくて、僕が何故そこに向くのか。世界は自分が向ける範囲にしかないから。母親も四国をドライブしていて、なんでそこに家を建てたんだみたいなことは言っていたけど、これはあくまで自分を基準とした世界の見方。似ているようで違う。これでは世界はいつまでも拡がらない。まぁ別にそれでも勝手にしてくれるかぎりには問題ない。

 他人の人格を勝手に決める現象のことも物理学がある程度解明してくれた。世界は量子の動きの平均値だということ。厳密にはどの本も同じようなこと言っているからどれがそれか分からないのだけど、それも含め。主観的世界の最小値は自分でしかない。この極小スケールがとても良き。一番は、現象として把握できるのは相関しかないというというところ。

 他人をどう把握するかって当たり前過ぎて、言葉で定義することはできない。というか伝達する必要がないから言語化されない。ある人にとって他人は相関としてしか知覚できないっていうのはとても素朴な感覚として分かるから良いな。いや、確かに存在していると思うなら、それは、貴方が固定した他人をその人としているから。時間と重力の関係で言えば近くに居る人の方が時間の流れが遅いし、というか、遅いも早いも概念としては同じようなもの。

 僕から見た人は、ある意味異星人。だから、関係とは運と縁だと言っている。運は、異星の公転周期がたまたま瞬間的に一致することで、縁は、その一致を継続させたいと思う意志。

だから人と接することができることは貴重なの。これってきっと家族でも一緒かと思う。どうでも良いけど。ほんと書ききれないなぁ。

 とすれば、まず相手に発信できる場が貴重、じゃないな、想い人に寄りすぎた。他人を自分の欲望の一部とすることに違和感が出てくる。僕の欲望は、情報としては価値がないもの。本当に生生しく欲していても、それが現実化して満たされるみたいなことはない。たぶんそうなったときその僕はそう言うだろうけど。本当に満たされたら人は終わる。

 すべては相関だっていう物理学の最新知見は圧倒的な力がある。相関した自分と他人が生活を形作るし。でも、僕はその先を勝手に想っている。勝手に好きという観念とか祈りは相関を越えているような。

 受動的なようにみえるけど、自分が主体的にできることは去年分かったので。自分が主体的に動くことは誰かの世界を壊し得るみたいな。なんせ月の人なので。引きこもった方が鮮明なるとも言わない。ここはあくまで今の観測値。

 相関と関係の違いは、前者は自分も変数だけど、後者だと定数なのところかな。世界に対して、自分が変数か定数か。変数だとすれば相手も変数だとしないといけないし、定数だとすれば自分の変化を自分で殺さないといけない。こういう精神性から婚姻が生まれたとすると分かる。

 不都合がない人はこんなに考える必要もないし、考えている人を好ましいと思うかも分からない。なんにも分かっていない。

 

 では、皆さん正月太りしていませんように。

 

おやすみなさい。