無根拠

 何事もなかったようでなかなか貴重な連休だった。誰にも会わないで思考できる連日はそんなにない。誰にも接したくないというのは臨床心理学とか精神病理学的には明らかに社会的不適合だけど、たぶん明後日には何事もなかったように仕事に行っているし、母親とか麻雀の誘いにもてきとーにフォローを入れるのだろう。人は他人をそこまで気にしていない理論。〇にたいと定期的に呟いているけど、これは退場願望というより社会で場所をとっているのが面倒だというところ。空間と場は微妙に違うかも。こういう細かいことって生活しているとあんまり考えられないし。別に考える必要はない物事だけど、必要があることしか考えるべきではないという考えもの。

 場と言えば、今日憲法職業選択の自由のところを読んでいたのだけど、なんで居住・移転の自由とセットで規定されているのかが知識としてじゃなくて実感として分かった。職業も住所も歴史上、個人が生きる固定化された場だった。士農工商は分業社会として良かったのだろうけど、その分業で割を食っている人が居たから、場を移転することが自由だとした。憲法は哲学的なところがあってとても良き。ただ、この場の自由すら持て余している感。不安定な自由より安定している不自由の方が生きやすいという観念。この観念の中だと、他人も場として規定される。とすれば、こういう場の自由は欲しかったのではなくて、単にないものねだりだったのかも。

 記憶には習慣的記憶と想起的記憶があるといったのはベルグソンさんらしい。記憶が場であるっていうのはともかくとして、「想起的記憶とは、過去の言語化。言葉による過去の意識化。」という考え方はとても良いと思う。つまり過去を想起することは1つの物語くらいな意味しかない。そこで何か客観的なものを読み取れると思えるなら、それは一種の宗教になる。

 僕がここの所やっている過去語りは、僕が過去に執着している訳でもないし、誰かに過去の自分を提示したい訳でもなく、単なる言語化の試み。読んでいる人は王様の耳はロバの耳の穴の中を観測しているだけ。この穴の中は、僕とってぎりぎりの純粋な言語化だけど、これが僕のぎりぎりの精神性という訳でもない。のか?

 僕が恐れているのは既知でまどろむこと。客観的世界の極致の物理学者さえも世界は分からないと言っている。知らないことに対する興味が世界が形作る。

 なんだっけ。例えば、感情に場があるとして、その感情に優劣をつけるのは何か。そりゃあ三次元的に何を優先するかだと思われる。確かに人は三次元の中でしか物理的に生きられないけど、そもそも次元とはなんぞやからか。

 次元っていうのは、変数のこと。空間は2直線と高さで構成されている立体だとしない人はいない。これが最小限の現実感覚。もう少し細かく言うと変数はいっぱいある。その人が習得した非言語の感覚とか。

 でも、精神の次元は限定されていない。そこが心身の統合ができない原因。精神は時空をやすやすと越えることができるけど、基本的には肉体の三次元に従属されている。肉体が精神に直結されるっていうより、精神が肉体を調整しているように観測されるけど。

 この文脈で言うと、精神的自己像的な肉体と三次元的な肉体がずれるのってあんまり現実を生きていないように思う訳で。食べるという行為は、意味的に色んなところに拡がるけど、我慢できなかったことが三次元的に形になる。すぐ三次元に還元される肉体を持っているってことなのだろうけど、僕の肉体は全然変化しない。この先は知らんけど、別に経口摂取に特に重きも置いていない。味は現実感を主張してくるけど、僕の現実感は三次元でもないし。

 三次元でない現実感とはなんぞやというと、自分の感覚を一次元とすること。僕が想い人のことを好きだと思うのは、僕のことをどうでも良いって思っているところ。とても心地良いなんてことはないけど、これが好きなんだろうなぁって。

 完全にとばっちりだろうけど、僕は自分の欲望が満たされることを幸せだとしていない。この流れでいうと、好きの定義で言えば想い人は僕のこと好いているのだろう。という風評被害

 返ってくることを求めるのは需要と供給があるのが当たり前の世界の中だけのこと。

 

僕は、返って来ないのに想うことが証明だと思う訳で。

ここで返って来られても困るけど。

 

対価を求めないない想いが胸を重くさせる。

 

では、皆さん体重くらいはコントロールできていますように。