物理的自己像

 もう少し誤字脱字に気をつけましょう。昨日の日記をざっくり見た感想。読んではいない。想いの重さはフィクションでしかないよなぁ。物理的に反映されたものから推測することはできるけど、別に何かの基準になるものでもない。

 さておき。明日から仕事なので外面を繕うために髪を切りに行ってきた。放っておいていた髭も剃って。髭はあごの形としては生えていたほうが良いらしい(美容系の直近元恋人さん曰く)けど、今の仕事じゃ生やせないという。当たりの方の理容師さん。幸先が良い。8日くらい人と話していなくても、対話のコミュニケーションには特に変わったところもない。今日は漫画の話だけではなくゲームの話をしていた。年末友人と集まってスマブラしていたとか、ドラクエ5ではフローラを花嫁に選んだとか、なかなか話しやすかった。

 ついでに、眉毛もぼさぼさだったので、毛抜きと眉毛用のはさみでなんとなく整えた。なんというか、外面を繕うための物理的コストがとても少なくて申し訳ねぇなと思う。まぁこのコストは良くも悪くも他人の物理的知覚に引っかからないというところにあるから、自分を繕うとは少し違う。もう少し頑張るならワックスで剛毛を整えるだけ。自分が装飾したいもの、であれば伊達眼鏡になる。デメリットは、どれだけ拭いてもガラス越しの世界は裸眼より不鮮明になるところ。毎日暗闇の中で文章カチカチ書いているのに一向に視力が悪くなる気配がない。読書習慣が影響しているのかどうかは不明。目の中にある筋肉?が日常的に伸縮しているかなのかどうなのか。次は生物学だなぁ。水晶体は濁っている気がするのだけど。

 装飾と言えば、冬場のロングコートのフォルムが見ていてとても好き。男女問わず綺麗な形の人は目で追ってしまう。馴染んでいるなぁって。僕も1着グレーのチェスターコートを持っているのだけど、去年末クリーニングに出しただけで1回も着ていない。装飾したいけど、あんまり馴染んでいるようには見えないため。電車で座る時とかやや煩わしいから、あんまりお手軽に着られないというもありきだけど。

 ただ、割と好評だったりするから、三次元の世界において自己評価なんぞあてにならんなという気もする。だから、三次元の物理世界では、相手がどう見えるかに付加された相手から自分がどう見えるかも興味対象にある。人格や人柄は顔に出るというのは経験的には分かるしなんとなく見える気がするけど、では、僕の顔はどういう風に見えているのだろうと。これって自分では永久に分からないことだし。そこから何かを採り入れようみたいな下心ではなく、単にどう見えるかが気になるだけ。

この辺りももう少し調整はできそう。他人がどう見えるかって結局は自分がどう見られてきたかの学習が起源で。だって自分のことは物理的に見られないし。僕は割と人を自分と相関付けて見ないけど、これがおそらく不思議に見えるのだろうと思う。ある意味冷たいことだけど、自分にとって危険はないか利になるかはあまり見えない。その視点で見れば自分が一番危険だと思っているし。

 まぁでも三次元世界から人格とか人柄を読み取れるとすれば、それは次元がもう1個増えている。他人の顔の中に他人が重ねてきた年輪を見ている訳で、時間という変数が追加されている。この年輪理論で言うと、他人に煩わされていない人の方が綺麗な感じ。あくまで感じ。

 そういえば、母親にはまだ返していない。怒っているというより不安がっているような気がする。という意味では母親に対しては下心満載で接していると言える。あくまで自己防衛のためだけど。親戚たちに僕がどう見られていたかみたいなことを思い出すと、帰る度に、父親と似てきたなみたいなことを言われてきた。世代を超えた時間性の話だけど、ここでは僕個人の精神性はなんの意味もない。父親を懐かしむための道具かよと。別に人格も出す気はないからとんとんだけど。

 

 

 そうして、少し生生しい話。

 ちょっとグロいので、苦手な人は読まないように。過去の言語化

 

 

 

母親が僕に強いことがあんまり言えないのは、僕が自〇するかもしれないと思っているから。ある意味良く見ている。確かにそういう精神性は全くなくはないし、定期的に音信不通になるのも見解を強化しているような。これは意図じゃなくて意志だけど。

 で、母親がそう思うのは、僕が父親の精神性を継承していると思っている罪悪感も含まれていると見ている。父親は最終的に脳梗塞だか脳卒中で亡くなったのだけど、直接の原因はアルコール依存症だった。最後の辺りはほんとひどくて、例えば冬場に冷水を満たしたお風呂に浸かっていたり、トイレじゃない家の廊下でトイレしたり。これに対して当時の僕がなんにも思わなかったのは、ある意味洗脳というか麻痺されていたとしか言いようがない。で、これを指揮していたのは明らかに母親で。母親も情緒不安定だったけど、今から見ると緩やかに向かわせていた。罵倒は日常だし人格否定も当たり前。

僕が唯一返りたいのはこの時系列。父親を孤立させた遠因に自分も関わっているし。書いていると泣けてきそう。当時はネットもないし、田舎だから何処かに相談するという発想すらないし。たぶんこういう家族生活が僕の精神性の根っこにどうしようもなく居座っている。一生の後悔である。他の誰かができれば他の誰かがすれば良いことだけど、可能性としては僕しか居なかったのに。この悲しさは僕のもの。

 母親含め、姉妹にも不信感を持っているのは、お葬式で、しれっと泣いていたこと。僕は全然泣けなかった。やっと泣けたのは棺を石で打つところ辺り。儀式に対する緊張もあったのだろうけど。剛毛が寝癖だったらしい。

 この二年後くらいに流星ワゴンという小説を読んで泣いてしまったことは秘密。

 もっとなんかおかしいよなって思ったのが、その何年後かに、母親が幽霊なんて存在しない。存在しているとすれば、父親はまず自分のところに出てくるだろうって笑い話みたいに言っていたこと。これを聞いた僕はなんであれだけのことをしてまだ自分のことを好いていると思えるのだって思っていた。死んだ人すら自分の為に使うのかと。

 でもあの苛烈な振る舞いをされても、父親は母親のことをきっと死ぬまで好きだったのだろうなと感じている。誰の悪口も言わなかった。酔っていても僕を含め誰にも否定的なことを言ったことがなかった。確かにある意味承継している。僕は否定的なことを言われたら反射するようになったからある意味進歩だけど。別にああいう風に死にたい訳でもない。

 この話何処かとか誰かに開示したことあったかな。あったような気もするけど、なかったような気もする。別にこの話で同情してくれみたいなことではない、のはここまで読んでいる人が居ればとっくに分かるだろうけど。

 と言う感じで、僕の根っこには人間不信の観念が根付いているのは否めない。これは自分すら信じていないということ。この意味ではああいう思春期がなければこういう人格にはならないという1つのモデルケースにはなりうるけど、姉も妹も居る訳で、どちらかというと母親寄りになるケースもある。人を使って自分を確立するタイプ。どちらも見てくれ良いし。

 でもまぁ良く脱却できてきつつある。誰かが自分の為に存在するが心配だとするのはやや行き過ぎ感はあるけどしょうがない。心配を純粋に観測できない。勝手理論だとできるけど。

 冒頭に戻って、想いの重さの推測は何をもって行われるのかいうと、発言じゃなくて行為だろうなと。自身の想いもそうしているけど、想いが成就すると交換が始まりそうで嫌だなぁって。

 

 もっと楽しいことを考えよう。

 

 僕の察しが悪いというか、そんなこと在り得ないと思っているからかスルーしたけど、あれって僕が飲みに行きたいって言ったことに対する返信の呟きなのかと捉え直した。捉え直しても、現実感は全くないけど。

 僕としては、想い人の生活圏から離れているけどそんなに遠くないアウェーのことを想定していたから、具体的な飲み場所までは。こっちの界隈であれば美味しいところはあるけれど、鶏の刺身が食べられる人かどうかも知らないし。美味しいお酒と言っても、僕は基本ビールがあれば良いので、美味しいハイボールとなると調査が必要です。

 本当に物理的世界で見るであれば、かなり忙しそうだから僕と会うくらいなら休息に使って下されとしてしまう。勝手理論で言えば、勝手に飲んでも良いよって言われることは僕には関係ないけど、そこがバグるのが想いの効用。

 

 最後。僕が現実感を見失っているのは、最初の現実が割と地獄だった逃避にあるのかもしれない。現実を再構成しているところ。というのが1つの読み方。

 読み書き話、だと話すのが一番簡単だと言ったのは僕じゃないけど、僕は話すことにはほとんど重きを置いてない。自分のことを話したいから会いたい訳でもなし。話すことが必要とされるのは三次元的な場の確保のため。

 

 想い人のこと書いていたら悲しい気持ちが単なるドキドキになったので、好きな人が居るだけで効用である。これが勝手理論。

 

 では、皆さん現実と非現実を見失いませんように。