物語的自己像

 こんばんは。

 

 初仕事だったけど、なんというか11人に時間をかけ過ぎなのかもしれない。同期にもだいぶ離されているし。まぁ運もあるけれど、運だけであれば帳尻は合うような。別に雑談は全くしていないけど、エネルギーの配分が悪いのかもしれない。通話時間が長い。そのうち指摘されるようであれば変えなければならないだろうなぁ。

 さておき。昨日の続きだけど、書き終わって考えていたら、僕の始まりは人間不信ではないなと。他人のことはどうでも良いこと、まぁ当たり障りない関係というか流される関係性の構築ばかりするようになったけど、それは葉っぱみたいなもの。本質は、どうしようもないやるせなさというか、無力感だろうなと、少し枕を濡らした。

 母親は母親で自縄自縛的な母としての役割に対して限界があった訳で、それ自体は特に恨んでない。外界を恨みだしたら何処にでも火種はできるし。それよりも、父親の味方になれなかった自分が嫌だったという自己否定の思想。でも、なんか違うかなと思うところもあって。僕が大人の観念が嫌いな理由。父親が緩やかに死に向かっていることを大人であれば皆分かっていたはず。依存症が攻撃的になってもう放っておくしかないではなくて、父親は別に酔っていても当たり散らしたりはしなかった。静かに消えていった。臭かったけど。というところで、何故か親族の大人皆父の死を美談にしていた訳だけど、親族の大人は誰でも父親の味方になりうる地位があった訳で。別に何か具体的に支援するとかではなくて、姿勢の話。特に母の親族は母を諫めることができたはず。なんで皆こんな大人になりたいのだろうと。

 大人が自他の境界をはっきりして分別をつけるという定義だとすれば、僕は一生大人でなくてよい。親族という集団の中で自他の役割を付けるとか、どこに意志があるのか。まぁこれも自分ができなかったことから来ているとばっちり観念なのだけど。そういう人たちが集まりのある度に僕の父親は良い人だったとか、僕が父に似てきたと集会の肴にするわけで。今考えると反吐が出る。大人の定義は必然的に子供ではないを含意するけれど、ということは、子供は大人より下だから、対等に扱わなくて良いとなりかねない。保護主義はいたわりみたいに見えるけど、実際は自分より下、ないし、弱いものだという認識が前提にある。まぁでもこういうヒエラルキーがないと家族は成り立たないというのも分かるけど。パターナリズムが好きじゃないのもここにある。

 あと、あるとすれば大人は正しいものという観念。これだとあんまり謝れなくなる。否を詫びるということは対等の世界の話であって、上下関係でそれをすると均衡が崩れるっている観念が前世代にはあったのだろうなぁ。母親が例えば、あの頃は済まなかったって子供達に折れていたら、おそらく分離はなかったろうなぁと。ごめんなさいとありがとうはどんな関係でも思ったときに使うべき。ということで想い人にとても失礼な言葉を投げた過去を見て、早く謝らなければと駆り立てられているなう。

 やっとここまで来たけれど、どれだけ悲しくて絶望にさいなまれても、この過去があったから今の僕がある訳で、これは揺るがせない。忘れたとしても無意識に固着して変に噴出してねじ曲がるから、こうやって言語化して意識した方が良い。別に僕は人の全てがこうなっているとも思っていないし、過去の言語化も僕のご都合主義で改竄されているかもしれないともしているから、別に過去に囚われている訳でもない。となってくるとなんだか自己カウンセリングみたいな行為。どれだけ潜っても自分の怒りにはたどり着けないのは、まだ不可視な領域があるのかしら。もう少し今に近いところだと怒りはあったけど、怒りで何かが解消された訳でもないから、怒りは基本的に要らない感情だとしている。怒りは欲望なのかね。やたらと怒っている人が自由に生きているようには見えない。

 ということで、ちょっと想い人に謝罪してきます。寛容すぎて意味が分からないのだけど。思い立ったらちゃんと現実化するのは大人の要素ではないよなぁ。ありがとうとごめんなさいはちゃんと言葉にすることを習っただろうに。

 謝ってきた。読まれるまでにタイムラグがあるのもとても良い。たぶん知らないだろうけど、新海誠の作品の中にロケットで地球から離れていくにつれてメッセージの受信がどんどん遅れていくというのがあるのだけど、そんな感じ。SFと和歌の距離感はとても近い。癖になる。

 僕の根っこの暗闇を救ってくれた想い人とへ妄想は、僕が過去と未来のどっちに重きを置いているかという面もある。別に未来に対する空想で過去が塗り替えられる訳ではないけど、今ここにおいては、どちらも比重が同じ。暗い気持ちも明るい気持ちも僕のもの。どちらもありがたいもの。ここに正しさとか自己肯定みたいな無駄な媒介はない。媒介の話はまた今度。

 そういえば、ちゃんと生物学の本を購入してきた。目の構造はなさそうだけど、文体が面白かったから。本当はごりごり専門的なものでも良かったのだけど、学者が書いたちょうど良い本という感じ。科学は正しいものじゃないっていう前提から始まったから先がとても楽しみ。生物の定義も、今の所3つの条件を満たしたものとされているけど、これは地球の生物しか知らないからで、宇宙の生物が発見されたら変わってくるだろうって。わくわく。たまたまなのかもしれないけど、こういう正しさを否定する本がじわじわと広がっているような。圧倒的シェアは、読んだだけで生活が変わるみたいな本だろうけど、そういうインスタントを求める人は、自分で考えるということはできない。時代は変わってきているなぁ。

 これは古本だけど、古代ギリシャには記憶術というのが流行っていたらしい。方法論としてはとても良さげ。何かを記憶しようとするとき、脳内の空間の中に記憶する情報と結びつけた場を作って、そこで情報を繋げていくということ。現代まで本としては残っているけど術として浸透していないのはなんでだろうと思うと、人はそんなに未知も考えることも求めない傾向があるのだろうなと。既存の価値観を自分で塗り替えることはある意味精神的な自死みたいものだし。記憶力もあったら良いなぁくらいなもので、今の自分を変えてまで得たいものでもない。古典の本が残っているのは、情報が限られた中でその人がひねり出したものだから。本当の知識は自分を壊す。

 もっと楽しい話を勝手に書きます。昨日現実的にあり得ることが乏しい妄想でドキドキして寝た。これは別にそれが物理的にあれば楽しいっていう意味ではなく、現実的にあるかもしれないの話。しかも想い人の現実に関する情報ほぼ皆無だから、場所設定を物理的に考えることがありうることで満足。その先は未知だからもう蛇足みたいなもの。

 そうして、早めに目が覚めてつぶやきを見ると、もっと物理世界的な楽しみがあるようで。その想像で寝られなかった。もともと文章に惚れたから好きになったのだけど、その人が製本した本が買えるというなんとも素晴らしい場。これは僕が日にちをすっぽかさない限りほぼ確実な現実。あくまでほぼだけど。確実な未来なんて存在しない。以下のろけ的想像。当人が見られる文章なので、ある意味ハードルを上げる行為だけど、世界はバタフライエフェクトだし。

 そのスペースに一目散に向かって、こんにちは、お疲れ様ですとか挨拶した後、触って良いですかって言う。そんで「夏の終わり」にやっと出会えたとか言いながら装丁を指でなぞる。想像の中の手触りがやたらと生生しくてよかった。ぞくぞくした。温度は移動しないからこそ触る行為が主体的な意味を持つ。移動するのも良いけど。そうして、買った後、想い人にゆっくりじっくり食べますねって言っていた。

 なんとも物語的だけど、これくらいのことはきっと普通に現実化できる。その先のやっぱり近くで見てもかわえぇですなとか、直に話せて嬉しいですは想像の中でもハードル高かった。

 面白いのは、こののろけ、全く公認ではないということ。頻繁に言葉を交信している訳でもないし、相手から特に好意の兆候を得た訳でもない。でもこういう一方的勝手な恋文を何故か寛容に受け取ってくれる。そういうところがとてもちょうど良い。僕以上の変人であることは確か。

 そうして、僕は物語的に生きているなぁと思いつつ、こういう生き方をしている限り言葉は枯渇しないと思う訳で。文字数も勝手に増えたな。物語的に生きるということは僕が作者ではなくて登場人物、でもなくて読者でしかないということ。

 

 では、皆さんが主人公でありますように。