掘り下げ

 本日は雨天だったため、お弁当は図書館の隣にある市の共有スペースで食べた。ふと目を上げると、宇治の温室植物園で今の時期にツアーやっていますよというポスター。こんなに離れたでも行政区間同士に繋がりがとか無粋なことが頭に浮かびつつ。植物園、是非とも行きたい。ツアーは要らないけど。人工で整えられた植物だとしても植物の集まりはとても良き。もう京都は無条件に好きもある。

 ここのところ実家のことをぼろくそに評していているけど、山はとても好き。「羊と鋼の森」という小説を読んだ時、僕の原風景は実家の周りにある山と森だろうなと。都会人にはどんな山か想像もできないだろうけど、一応道路はあるから車は通れるけど、徒歩圏内にイノブタの糞塚がある、みたいな。そういうところを割と1人で歩き回っていた小さな頃。動物とは会わなかったけど。飼っていた猫がモグラを狩ってきたとかはあったけど。

 ほぼ野生児みたいだけど、まさにそんな感じ。なんで1人かと言うと、友達のうちまでとても遠いから。徒歩しかない状況で1時間くらいかかるとか。あまり遊びには行かせてもらえなかったし。これって母親が自分ちの環境をあまり外に漏らせたくなかったのかもしれないけど、真相は知らない。

 そうして、大学以降、帰省したときも、散歩は必ずしていた。昼間は植物の謳歌を鑑賞して街灯皆無だから夜なんて完全に暗闇。ほぼ自然の営みと変わらない。星の多さが全然違う。生活するような所ではない。ところで18年くらい生きてきた。最後の辺りは原付のおかげで随分と遊んでいたけども。

 そうして、一番好きな景色が、裏山の頂上から望む景色。たぶんあそこを生活圏にしている人だれ一人見てないと思うけど、それはしょうがない。生活の場の美しさを見る余裕なんてないだろうし。いつか誰かに見てもらいたいなと思っていたことを思い出した。そんな機会は一切なかったし、これからもきっとない。次帰った時はせめて写真に撮りたいとは思っているけどたぶんもう整備がされていないだろうから、草ボーボーだろうなぁ。車でどこまでいけるのか。山頂付近にある祠を整備する人はきっといないだろうし。どんな景色かは僕の表現能力の限界まで描写できるけれど、ここまで来るともはや無粋か。某県の某地方の標高300くらいのちっぽけな山だけどなんだかんだ僕の原風景なので。

 ここまで、宇治の植物園から引っ張り出された1つの想起。ひっぱり出すのはやはり語彙で。語彙は、広辞苑の言葉をいっぱい覚えることではない。語彙はきっと体感と思考の連結で、連結のためにはどちらも不可欠。植物に親和性を感じるのは、植物は対象でしかないないというところ。

 なんだか引きこもり9日間を通り過ぎて、随分吹っ切れたというかすっきりしたというか、主観的に生きることに馴染んだみたい。今日たまたまラインのポップが上がってきて、母親から、「元気ですか」っていう冒頭のメッセージが届いていたことが見えた。従来の自分であれば、返すべきという義務が生じるはずだけど、義務は浮かばず、あぁどうせまた心配していますとかが続くのだろうなぁと他人事の読み方。ならいざ知らず、19の「あの紙ヒコーキくもりぞらわって」が流れてくるという。年代がバレる。

 元気ですか。っていう送信って、厳密に言えば返し方として元気ですとしか言いようがないから、本当に返信を求めている言葉ではないだろうなと。いや違うな。返信は切実に求めているか。自分が認識する範疇に相手を留めたい言葉。元気っていう言葉は自分を表するときに使うものであって、他人が元気かどうかなんて一生分からん。

 そもそもこんな曖昧な言葉を使うはタブーにしたいところ。旧来の言葉観念は一新しなきゃならない。という自己刷新観念。周りの人が遣っているようにしか遣わないのが言葉の一次的な機能だから、ちゃんと自分の言葉で使えるようにしなければ。少なくとも元気は廃していいな。たぶんこういう言葉って、言葉の中身を考えずにざっくり交信するために生まれている。僕は交信ではなく受信と発信はきちんと分けたい立場。

 元気ですかじゃなくて、元気かどうか知りたいので連絡下さいっていう主体的な言葉だったらまだ分かる。この違いは厳密に言語化できないけど、連絡下さいっていうところに意志があるし、意志が応えられるかどうかも相手を自分と同じような人格で見ていれば分からないだろうと。受信と発信を分けたら元気って言葉に意味がない。

 発信としてあるなら、元気だったらいいなーくらい。これは発信ですらないと言えばそうだけど。

 ちなみに、19もゆずも好き。あの時代で言うと、シャムシェイドとか諸々も。1/3の純情な感情。全く関係ないけど、今日ネットの記事を見ていたら、日本の教育は形式主義だっていう流れで、一方的な情報は1/10しか伝わらないっていうのがあって、たまたま繋がった。壊れるほど愛しても1/10しか伝わらないのが正解。笑

 一方的な感情は相手が自分の範疇に居て欲しい自己愛だし。僕の勝手理論とはずいぶん違う。一方的な感情ではあるけど、別に僕が想った通りに返ってくることで満たされるなんてことはない。いや満たされるかもしれないけど、それはたまたまということ。受信と発信を分けるというのは、自分と他人を個人として分けることに等しい。面倒だからやらない方がおすすめ。

そういえば、物理と物語って一字違いだったのを自分の日記の並びを見て初めて気づいた。確かに、物のことわりと物を語るって観念としてはとても近いところにあるけど、僕の従来の視点では見えなかった。物理学の本を通したからだろうなと。物理学も、語義を放棄して物自体は把握できないっていう学問になっているようだし、物を記述することも物自体は言葉にできないことを前提としている。

 なので、自分から捉えられる現実を客観的に評することはできないから、現実的っていう言葉も放棄して、体感的にはってことになる。物理的に云々みたいなことは物理学に精通していないし、法学に精通していない人は不倫を犯罪と同等に評するし。

ここまでくるとやはり、貴方はこういう人だって言ってくる人ってほとんどろくなものではない。結果から考えるという意味では、とても脳科学的ではある。脳は現実化したことに対して理由を後付けすることで整合性を保って省エネする傾向があるのは研究で実証されているようだし。

 僕は異星人なので、人は皆異星人であって、繋がると感じたことは、本当は異質なものを共通感覚で無理矢理一緒にしているのではと思っている。その異質さを把握している人はたぶん他星人に怒れないし、近い人をえこひいきするみたいな感覚にはならない。

 僕がえこひいきする星人は、単に僕が好きだからであって、僕の体感が良くなるからではない。地球人の関係は切れたから、ここからは異星人との関係が生まれるのではとか、は空想の範疇。

 空想は何も繋がっていない、妄想は現実に起こり得るけどほぼ起こらない、想像は現実に起こりうる可能性がやや高い。

 想い人へののろけは開示しすぎて調子に乗っていたので自粛。でもこの人が生きているだけハッピーだなと勝手に想える。とくに何か交換できた覚えもなし。気になるのは、何か緊張を伴って送信しているように見受けられるところ。知らんけど。

 最後。異星人的交信理論だと、本当の言葉とは、自分を度外視したものだと思う。そんなものはないかありうるかの感覚が分水嶺かなぁ。

 まぁ良いや。肉体は地球人なので、睡眠は大事。

 

 では、皆さんが幸せでありますように。

 

おしまい。