ただの恋文

 知らぬ間に週末。そうして知らぬ間に三連休。時間の流れは仕事時間が一番楽かもしれない。楽というのは手を抜けるという意味ではなく自分で時間を決めなくて良いという意味。これは関係における時間というのもあるのかもしれない。まぁ良いや。

 どうせだから明日は宇治の温室植物園に行こうかな。宇治が京都の何処に位置するかも知らないけど、行きたいところには行こうと思えばすぐに行ける。これが移動の自由というもの。ただ、人それぞれ柵があるだろうから柵の外を想うことより内側でどれだけ自由に移動できるかの方が重い気がする。繋がりは安定だけど、その安定は不自由に等しいから、安定を得た上で自由を求めることは、隣のブドウは酸っぱいと同じ。僕は安定を犠牲にして身軽を選んでいるだけだから。

 時間の概念は割と根が深くて。某本で、社会的時間と文化的時間があるとのこと。社会的時間を基準にするのがまさに社会だけど、この当たり前を窮屈だと思うのが私的時間。ただ、これって、私的時間の内訳をあまり追求していないからという理由なのでは。なんでそこに不都合を感じるのかって、私的時間と社会的時間がずれているというより、社会的拘束が良く分からず合わないみたいな感覚なのではとか。

 細かい話だけど、時間は1つだと思っている人ほど、自分が相手の時間を使うことに無頓着。僕は私的関係における遅刻は特になんとも思わないけど、相手としては、特に重きを置いていないか、甘えて良いとされているかのどちらかだと観測する。甘えとは時間におけるもたれかかりだから良いけど、どうでも良いなら他の人と関係してくだされと思う素朴な自分。

 時間の尺って一応基準として時計というものがあるけれど、これって私的生活では目安でしかない訳で。電車の運行が分単位だから、待ち合わせも分レベルで遅くなったらイライラするという。基準を外に置いている。いや、別に現代日本社会においては全く問題ないけれど。

 ところで、半額だったからまたケールを買ってサラダにしてみたけれど、なんというか、全然味がない。栄養価が高くて味覚に訴えるものがないってサプリメントと等しいなと。これを食べて栄養なら確かに負荷はない。胃は量しか求めてないようだし。時間感覚と味覚を含めた五感の感覚は現実感という括りではほぼ同じ。現実感とはなんぞやって問われたら当たり前に在るものだから言語化できないってことになるはず。これほど味を感じない野菜は初めてだわ。

 あくまで自分を基準として生きてくると、社会的時間はほぼ意味がない。遅刻は一切ないし、アラームの意味もない。ほぼ確実に仕事には行ける。問題は私的な予約のところ。歯医者の定期健診とか我ながらよく起きたなとか。ここで混同してはいけないのが、自分のことを想っているのであれば、自分の時間に合わせてくれるはずという観念は自己愛だということ。容赦ないけど、この観念がある時点で私的関係における人は代替的だということが前提とされている。

 僕は別にそういう風に扱われていることに対しては何とも思わない。自分の私的可処分時間とのかねあいにおいては、僕じゃなくても良いなら他の人とやってくれとは思う。それなりに空白になるけど、その空白はそのうち埋まる。ということを逆からみれば、僕が誰かに私的メッセージを投げた時、そのメッセージの存在が、相手の私的可処分時間を殺していることに等しい。

 このことを厳密に考えられないのは、きっと社会的な時間でしか生きていないから。

 相手の好意に収まる範疇で生きることはやろうとすればきっとできるけど、他人を基準とするってとても難しい。自分を殺し切ってもなお足りない。関係を保つためには交渉をすべきだという観念があるけど、要は、好きな人の為にお互いが変わろうとはしないのねと。お互いが相手を変えようとしていてそこの妥協点。であれば他人は結局環境でしかない説で良いかなと。相手の為を想っているは自己愛。

 こんなことはどうでも良い。僕は身軽になって脳内がとてもクリアになった。記憶も時間も観念も必要ない。自分がそう感じることは、誰にも共感されなくても良い。想い人に対してすら。考え方が近いとか自分にとって気持ち良い人が好きだっていう概念は否定しないけど、僕はその気持ちよさを提供できる自分ではない。ほんとにそれでも良いのかなぁって。

 想い人に対しては僕が個人的に好きになった経緯があるのだけど、これは内緒。言語化はできるけど、一般公開はできない。

 だからおかしいなと思うわけで。その分からなさがどうしようもなく好きだなと。重みが違う。

 

では、皆さんそれぞれの現実生活を営めますように。