日記

 どうでも良いけれど、僕はこれだけ料理をやって居ても食材の形を統一的に切るのがとても不得手。何故できないかと考えていた。形に無頓着だからと暫定していたけどなんてことない、利き目の問題だった。左目からでは右手で切る時正確に手元と一致しない。利き目を矯正することと左手で食材を切ることになるのと、どちらのコストが低いか。というか利き目って矯正できるものなのだろうか。左手で切ると良く見えるから、左手を器用にする方が早そう。一石二鳥的にキーボードも早く打てるようになるかもしれない。

 さておき。今日はひたすらよく歩いた。時間に換算、してもあれか。出来事としては宇治市植物公園に行ってきただけ。とても楽しかった。ほぼ独りになって思うことは、疲れも楽しさも、自分の中での言語化より、誰かから言われた言葉で観念が強化されるのでは、とか。独りになってやっと、何処に居ても楽しいなという観念が自由になった。仕事時間もそれなりに楽しいし、家だったら本読み放題で楽しいし、外に出れば世界が楽しい。人の言霊は何処かにしんどさが凝固されていることが多い。僕のハッピーの観念は共通観念にはなりえないだろうなぁ。次のハッピーイベントは来週の日曜日。想い人と邂逅できることと、想い人が書いた本を読めることのどっちがよりハッピーかと聞かれても断定はできないという。本と人は不可分。これは一般化すると言葉と人は不可分でも良い。

 まぁ、健全な肉体を持ち合わせているから、不健全な空想も当然想起される訳だけど。ここに応えられたら全力で触るだろうなと無駄な予防線。僕はまぐわいにおいて自分の昇天に重きを置いていない。

 ともあれ。日記的日記。

 仕事の日より早く目が覚めるのはいつものことだから、良いとして。昼頃に出発した。公式ホームページだと、京阪宇治駅からバスで15分。ふむ、歩けるなと。この時点でおかしいのだけど、まぁ歩いた。道を間違えないようにしていたはずなのに、運動公園にたどり着いてしまった。不本意だったけど本意より良かったという結果的ハッピー。サッカーをしている少年たちとか、手入れされていない自然とか、歩いている人達とか。

 おそらく僕の目的から来たおじさんから話しかけられた。「(ぜーぜーお茶飲みながら)この先に何かありますか、森だけですか。」この人が何を求めているのかは分からないけど、とりあえず森ですねと応えて、しばらく行けばサッカー少年団は居ましたよって応えておいた。おじさんは、そうですか、ありがとうございますって言っていた。なんにも応えられてないけど、このおじさん他人の邪魔をしているという観念を持ち合わせている感じがあって良かった。僕はそういう意味で道中誰にも声をかけない。邪魔して欲しいっていう人もいるかもしれないけど、それは外から見分けつかないし。

 そうして文明の利器を活用しつつこの公園を越えた先が植物公園だった。わくわく。初めてのはずだけど、あんまり初めての気がしないという。地形的には六甲山と近いと思ったけど、もっと前のような気がして。もしかしたら、僕の自我が形成する前に家族旅行で連れてきてもらったのかもしれないなと。これはそんな事実があったかどうかは全然関係ない。過去は事実と照合できて意味を持つものでもないし。

 植物の話。完全にシーズンから外れているから、鮮やかなものはほとんどなかった。あったのは冬桜のつつましいかわいらしさと、なははっていう菜の花系列の圧倒的春を思わせる匂い。天然の菜の花が群生しているところを歩いた記憶からミツバチの羽音が聞こえるような匂いだった。他の集団から聞こえてきた言葉だと、前よりも匂いが強くなったらしいから、ある意味ちょうど良いところで行くことができたのだろうな。基本的に植物が多いところだと元気が補給できるから鮮やかであるかどうかは関係ない。世界の積み重ねを吸収できる。

 温室もちゃんと行った。湿度がやたらと高くて、体感としての不快感は半端なかった。で、植物も割とグロテスク。植物としての生命みたいな生生しさが凄かった。木のほとんどは死んでいるという話を帰ってから読んだのだけど、逆算すると、ここの植物はだいたい生きている。バナナとかパイナップルとかもあったな。

 そうして、僕の物語としては、帰りもハッピー。帰りも駅まで歩いたのだけどもちろん違う道から帰った。宇治市は坂が多くてとても好き。僕は坂フェチもあるけど路地フェチの方が強いから、通行に使われている道から離れて生活から離れた道に逸れまくっていた。一軒家の家庭菜園もある意味植物園だなってほくほくしながら歩く。アスファルトから独り咲く、葉脈が赤で花がこじんまりしたタンポポに近い植物に焦点が絞られる。

 あとは、悠々閑々っていうプレートを見つけたり、ネームプレートから見た苗字で自分が何を想起するかを考えたり。悠々のやつは、僕の本名だし長閑とセットかよ、まさに僕かよというだけ。僕の時間性を誰かが観測すればとてもゆっくりだと思う。ただ、こう見えるのは、ゆっくりしようとするベクトルでブレーキをかけているだけ。相殺の結果。

 苗字の件は、自分がその苗字を見たときに残るかどうかは、経験に寄るということ。他の人は知らないけど、僕は苗字の中でうじゃうじゃしている観念がある。例えば、山田に何人記録されているのか。

 これって、要は自分の記憶の中で残っている個人とはなんぞやっていう切り分けだと思う。あぁ、ところでだけど、今日の移動時間の前にどの小説をお供にするか選んだのだけど駄目で、現地調達して、行きかえりの時間で読み終えた。

 死後に当人が残したくない情報を消すっていう仕事の話。この観念って、死後にも自分が残るっていう観念があるのだろうなと。死後に自分を残したいという観念は僕にはないけど、他人のことはちゃんとだいたい残っている。

 他人の中に凝固された自分についてどうでも良いと思えるように調整している。そのままでええけど、現実的な関わりにおいて、過去の自分を凝固されていると困る。でもそんな関係は原理的に難しい。

 やれやれ。最後。今日読んだ小説は電車の中で泣きそうなところがあった。本で結構泣くけど、これは僕の辛さに共鳴している訳ではない。僕は辛くないし、登場人物の境遇とかシーンとかで勝手に泣けるだけ。 

 泣く自分は恥ずかしくはない。泣いている姿を見せようとしたのは恥ずかしいけど。

 では、皆さん、ちゃんと世界を観測できますように。