程度

 昨日の日記、もう少し細かく言語化できたろうにさぼったな。自然の積み重ねに対応して路地は人の積み重ねだし帰りの描写が甘い。眠くなったのだろうし他に注意が行ってしまっていた感がありありだからしょうがない。

 そういえば、邂逅という言葉はたまたまのめぐり逢いという意味らしい。予定として会えるという意味とは違うから誤用かなと考えたけど、いや、やはり邂逅で良いかなと思い直した。そもそも予定が合ったとしても絶対会うことができるかというと、そんな訳はない。体調が崩れたり、僕が日付をすっぽかしたり(明日本当に祝日なのかも不安)する可能性もある訳で。ということは、邂逅なのか予定なのかは程度問題でしかないから自分がたまたまだと評するのならそう表現して問題ない。あと、事後言語化としては継続性の要素もあるのかもしれない。一回きりだと思っていればもちろん邂逅よりの概念。これをこじつけだと評するかどうかもその人次第。

 さておき。今日は少し現実的な話。水とアルコールを買い出しに行こうと思っていたら、飛び込み営業がやってきて、浄水器を付けていった。1年間無料とのこと。これだけだととても胡散臭い。私人は意図なき行為をするけど、会社は利益を生まない行為ができないので。厳密にいえば、定款の範囲内だけど。

 経緯としては、大阪の水が良くないからその対策でと言っていた。ここではどこに利益があるのかは分からない。だけど、営業方法が心理学的に誠実だなと思って。たぶん疑われてきたからだろうけど。まず、設置して、飲み比べをさせる。確かにカルキ臭は抜けていた。その後、東急ハンズから買ってきたという恐らく塩素濃度の判定薬で視覚的に証明するという流れ。営業効果高いのは順番が逆だと思う。ただ、この浄水器がもたらすのは、カルキ臭を抜いて飲みやすくするだけかもしれない。成分的に特に問題がないのはご飯を炊いたりして分かっている、というか、経口摂取する物の悪影響なんて即時に食中毒にならない限り分からない。

 そうして、問題は法的にどういうトラブルが起こり得るか。契約としては動産の賃貸借で、相手は株式会社だから、消費者保護法の適用対象になる。とはいえ民法や消費者保護法よりも契約という合意が優先する訳で、どこかにトラブルの匂いがないかと探ってみた。例えば浄水器だとフィルターの交換が有料だから、そこでぼったくることもありうるなと。しかし、無料期間中はフィルター交換を何回しても無料らしい。あと気になるのはクーリングオフの記述がないところだけど、聞いたらそんな期間関係なくいつでも返却して良いらしい。

 あと考えられるのは、個人情報の漏洩だけど。会社を調べて見たら平成23年だし資本金300万円だから漏洩で信用落としたらすぐ潰れるし、インスタントでやっている訳でもないからまぁ信用しても良いかなと。本当は登記事項調べれば一発だけど、たぶんネット上の会社情報が登記とずれている場合監査入ると思われ。たぶんこの会社法務にしっかりした法的知識を持っている人がいないだけ。

 じゃあなんの為かと推論すると、なかなか難しい。名古屋が本社だから営業のための初期投資とも考えられるし、あとはデータ収集か。この会社の株主はこういう営業を承認しているということになる。

 僕は結構営業さんには痛い目見てきた、インターネットプロバイダ関連とか。なんだか御しやすいと思われるみたい。前の恋人さんも宗教の勧誘のピンポンには応えるなとか。確かにそういう傾向があったことは認めるけど、これって、自分がどうでも良いっていう観念の亜種でしかない。相手の言っていることを信じている訳ではない。僕は宗教にもたれ掛かるのは無理だし。

 そうして、今回の奴は、ここから先に何かトラブル起こった方が楽しいなと思ってしまう、自分の人生に不謹慎な観念。法的トラブル希望。営業の人達見ていて、何か言っているし僕もてきとーに応えているところを観測して、(我ながら外面良くなったなーという感想しかないという)。このトータルで考えた浄水器の無料は、大阪に対する情報収集なのだろうなという感。僕は全く関係ないから申し訳ないけど。営業の人も愚直に共通項で頑張っていた。

自分が積み重ねたものを自分で利用することを変に規制していた過去は、社会に対してじゃなくて、近しい人達に関する観念だったのだろうなぁ。僕の個人的ハッピー観念では、人生は命をかけた壮大な実験場になっている。ラスボスは母かしら。実験場であることと日々を大事にしないことは等しくない。

でも、恋愛感情の告白も営業みたいなものよね。自分に欲しいから自分がどれだけ与えられるかの交渉みたいな。僕が好き好き言っているのはここには全く関係ない。

ところで、僕が御しやすいと思われていたのも分からんでもない。僕は相手の観念に合わせていたし、そもそも人に対して、僕を認めてくれっていう欲求がない。疑似的にやっていたけれど、上手くいかなった。イエスマンに見えるだろうなぁと。もはや過去である。

時間泥棒は、悪いことをしているから奪って良いですかって直に聞く。というか聞いた。あと、自分のことを肯定してくれたから好きになった訳ではないとか。素朴な自我は実験野郎だから、自分が変化し続ける訳で、あるピンポイントの自我を肯定されたところで特に幸福感がない。自我の肯定に対する幸福感って何それみたいな観念。

これを踏まえて好きを考えると、自分にとって気持ちいい反応をしてくれることではない。どっちが先かは分からないけど、使用されても良いくらいに好き。が、最低限自分は確保する。

 やれやれ。来週の日曜日あわよくば美味しいことが決まっている本を購入できるけど、それまでもたないという。ウェルベックさんのセロトニンも読み終えてしまった。それほど悲しさは共鳴できなかったけど、最後らへんにトーマスマンの「魔の山」が出てきて、やっぱり村上春樹に影響された人なのだろうなと勝手に思った。ただ、読み通してみると、あんまりそんな感じでもない。性的シーンの使い方が明らかに違う。

 本の読み方で言うと、昨日で完結した本多孝好のミステリーのタネもだいたい気付いてしまった。そこに快感を得ることはないし、結論も関係ないけど。

 そうして思うのだけど、人は自分のことを肯定する人は求めていても、掘り下げる

野郎は求めていない。僕もそこまでの人物は現れないと思う。

 なんだっけ。言葉を音とか味とかに換算すると、誰の言葉が一番気持ちよい?

 

 では、皆さんがちゃんと個人でありますように。