WordExcel判例と条文を整理していた。情報をまとめるのはExcelの方が適しているような。刑法だからというところもなるのか。構成要件を整理していた。刑事裁判は一般の人には関係ないように見えて、今や裁判員として選ばれることもあるからそれほど遠くもないか。でもその前にも検察審査会があった訳で、なかなか当たらないなぁ。

 言語化してもあれだけど、構成要件はある法益を保護するためにどういう型を犯罪とするかの類型。法益は、刑法が保護する利益で人の命、体、財産という私的な利益から公共の危険とか国家の公務とか諸々がある。具体的には、主体、客体、行為(客観・主観)、結果等だけど、これはまだ抽象的で、条文ごとに類型がある。まぁ犯罪が何であるかは国家が法律に基づいて決めるという観念が大事だと思う。道徳の法律化という面もあり得るけれど、問題はどう悪いかの具体的な中身。人が人を害しうる存在であるという歴史の積み重ねという面もある。ともあれExcelはセル間の移動とかAltキーから挿入するとかFnF2とかのショートカットでキーボードだけで操作できるようになるとまぁまぁ早い。事務処理能力はまだまだぽんこつ

 判例とは、最高裁判所の判断なのだけどあまり厳密ではない。広義とか狭義とか法律学が良く使う言葉。当事者が具体的な事実を争って、争点に対してどんな判断をしたかというのが大事なのは、次回以降の具体的事実がどう同じでどう違うかによってどう判断されるかの見込みが立つから。こちらはWordでまとめているけど、あまり綺麗にまとまらない。結局は何をどうまとめるかが曖昧であることが問題な気がする。触り方が足りないのだろうなぁ。あと4か月くらい間に合うか。

 あとプレゼン資料とかを考えると、PowerPointもできるようにならないとぁと。あわよくばPhotoshopみたいなデザインとか。センター試験を勝手に受ける野望も忘れていないからまだまだ足りない。ただ、足りないことへの渇望と自身が相関しているかというと、それも違うような。なんだかんだ楽しんでいるし。誰かの気分を害するのもしょうがない。生きている張り合いはずっとずっと内部にありそう。というか、なくても僕は生きているのかも。最終的にはどうやって生活するかという問題になりそうだけども。

 さておき。ご飯が足りないので補充してきた。物理的な方はほぼ問題なかったけど、水洗いするだけでサラダとして食べられるという水耕栽培の春菊があったから補充。たしかにアクが全然ない。サラダほうれん草もあったけど、水耕栽培だと何で洗っただけで食べられることになるのか。スプラウト系、豆苗とかも生でいけるから、日光に当てないとか自然の土でないことが何かの条件になっているのかね。と、思うと、ではもやしはなんで火を通さなきゃいけないのだということになる。もやしも水耕栽培だと思うけど、キノコ類と同列なのかね。浄水器は、確かに匂いがしなくなって快適に飲めるけど、既にやや水が漏れている。これは多分もともと古くなっていることによるだろうから、別にクレームしようとは思わないけど。

 精神的ご飯。肉体は循環的だから、悪い物食べても続けない限りそのうち食べたものはなくなる。続けるというと精製された砂糖が鬱とかに影響があるという研究があるらしい。おやつを食べるなら、精製されてない砂糖で自分が作った方が良いみたい。果物の果糖とか炭水化物の糖質は問題ないらしいけど。でも、人格は不可逆的だよなと、何かを食べてしまったらその前には戻れない。記憶として再現できなくても無意識下に影響がある。その影響はほぼ無いとして良いだろうけど、完全に無いとは言えないから、僕の文章を読む時間があればその時間をもっと良質な文章を読むことに充てた方が良いと思う。まぁ僕が決めることではないから知らんけど。いや、退場すれば読まれることもないからそう意味では決めているとも言えるという内部的反論。確かに。

 宛てているからには責任を持てみたいな観念が考えられるけど、どういう影響をもたらすかは発信者には不確知で。唯一確定されているのが時間泥棒。ちなみこれはこのタイトルの童話があるらしい。小説じゃなくて学術書で読んだからこれは確か。主人公はモモという少女である街にやって来て。住民はモモに自分のことを聞いてもらうことで幸せになったっていうのが第1パート。その後、時間泥棒が登場する。時間泥棒は住民の生活を時短させて、節約した時間を奪うから住民の生活はどんどん澱んでいく。丁寧に仕事をしていた床屋さんが画一的な仕事しかしなくなったとか。これが第2パート。その後第3パートでモモが泥棒の奪った時間を取り戻すという流れになるらしい。原作がとても読みたい。いつか邂逅できるかな。

 不可逆的ご飯のために最寄りの古書店に行った。結構にぎわっている。まずは入口にある50円のラックを探ってみたけどめぼしいものはなく。あんまり頻繁に通うことがなくなったから、へそを曲げられている感。気になったのは小説なのにもはや形状が箱になりつつある京極夏彦さんの魍魎の箱だったけど、実際に買ったものは別になった。なんだか面白そうだなという直感に従ってゴーゴリさんの「外套・鼻」。本当は違うタイトルだった気がするし、おそらく読んだことあるし家にあるだろうなと思いつつ、「鼻」を読んでいる。ゴーゴリさんの文体はなんだか国木田独歩感がある。真面目に滑稽。

 もう1冊は、デカルトさんとかもあったのだけど、想定外の、アランさんの「芸術の体系」。美学についても気になっているから完全に外とは言えないし、「共通感覚論」にも交わっているし。ともあれ、美学の起源ってカントさんだったのねというところと、何を美として何を醜とするかの直感がどうあるかというのを探ってくれそうで面白そう。

 おそらく共通感覚論の方だけど、僕が最初に美学に触れた「美学入門」を書いた中井正一さんが出てきて、美的感覚は感情を媒介にしていると主張していたとか。確かにそういう面も実感としてあるけれど、美の本質って感情の外からやってくるものなのではという疑義。僕は学者さんの見解でも自分の中ではまるっきり正しいとはしない。だって、自分の認識を規定するのは自分だから。共通項とは違う。

 例えば、もう2年前か藤田嗣治展を見に行ったとき、直接鳥肌が立ったし、モナ・リザの精工なコピーもそう。何か得体が知らないけど訴えるものを創るのが芸術家なのかどうかは知らないけど、自分の感情とは関係なく美しいと感じる領域がある気がする。何気ない景色から美を抽出するとかだと、感情というよりも余白な気もするし。あと桜が綺麗に見えるのは経験的観念だとか。美術展巡りも加えるか。美を感じるのは主観だから主観に対しては敏感でないと。

 月とか植物とか建築物とか生活とか、美は至る所にあるけど、直近で人に対して感じた美って想い人だったなぁと。ストーカー的に遠目から眺めていたのだけど、振る舞いがとても綺麗だった。上下黒の服は黒子ではなくて戦闘服だったのかと直近のブログを読んで把握。

 好きだから綺麗に見えたという説もある。この条件を除いてもそう見えたかというと、たぶん見えただろうなと思うけど、この仮定はまぁまぁ無意味。人格は不可逆的なので。こんなの好きの根拠を補強することにしかならない。

 という風に、僕は論理と感情と感情の外を全部等価として生きているから、他人がどうあるかとかはあんまり関係がない。僕をどう扱うかも不問。

 では、おしまい。

 

 皆さん、自分を見失いませんように。