大事

 繰り返し繰り返す。Excelでの整理は帰ってからの晩御飯作る間の時間に組み込むことが決まった。30分ぐらいしかないけれど、楽しいし時間の確保としては今の所これくらいが限界。一章分くらいずつは進められる。大事なのは整理した情報をどう扱うかというこの先にあるし時間を区切られた状態でどれだけできるか。関数は現状それほど優先順位が高くない。定量的にデータを扱うことに興味があまりない。ただ、今後を考えると覚えておいても損はないかなという程度。そういうところは関数よりもAIとプログラミングが気になって居る。

 そういう感じで本日は自分の効率化というか、生活の質のようなものを考えていた。切り詰めるところは真っ先にここと思わせて、ここは割と高い。言語化の手慰みというか練習みたいな意味で。で、一番簡略化されそうなのは夜ご飯かなと。作る時間は良い。次の日で買うとすれば起こり得る無駄な待ち時間と相殺されているし、並行的に作るのはなんだかんだ頭を使うから。問題は食べる時間。晩酌とセットだと文章時間にも直結されているけど帰宅してからの時間に、ただ食べる為の時間を20分とか取って良いものか。断食の情報も見てみたけど食べなくなって体重が減ってしまう恐れ。今がぎりぎりちょうど良いから。没頭していたら平気ですっぽかすということは食べる時間って優先度が低い。そのための味。食に感謝とかちまたには言うけど、感謝って儀礼的な意味じゃなくて、自分の味覚を自覚することでは。前々世代は飢えないことへの感謝だったろうけど、今は自分が美味しいと感じられることへの感謝。ともあれ飲まずに食を保てるのかどうなのか。納豆かけご飯で良いという気もするけど。色々試行錯誤してみよう。

 平日においてぐだる時間はほぼないから、どこを削るかがとてもシビア。中間媒介である言語化された倦怠的感情がなくなりつつあるともいえるかもしれない。でもこれって若干過労死のような傾向とも思えなくもない。自分の疲れが感覚できてないみたいな。ただ割と体感も注視しているから、そんなこともなかろうなとも。身体感覚が一番影響されるのは、なんといっても思考。思考は人間の維持にとってとても優先順位が低いから、体が維持されてないとやすやすと揺らぐ。例えば風邪引いて熱が出た時とか肉体が思考を支配しているし。

 さておき。あとは、道具と心身の拡大についての思索。言語化するなら法律学の方が役には立ちそうだけど、役に立ちそうという観念があるだけで萎えるのが自分の精神。調整が大変である。

 道具と心身の観念的範囲の相関について。発想としては道具を自分の延長とみなすのかなぁという種。昼ご飯辺りに考えた。もやもやしてあまり言語化はできなかったけど、所有の観念があるのかなと法学と繋がる。近代の法律学は、個人に財産の所有を認めることで、個人の観念を拡げた。というところで、所有している財産で優劣を量るとか、移動手段によって自分の範囲が拡がるとか。

 知識を道具とみなすなら、より多くの知識を持つことで自分が拡がるということになるのだろう、という方向が精神の拡張。知識が更新されているから過去の人は遅れているという観念もきっとそう。でもこれって、道具が発展しているだけだから、当人が自発的に何か拡げたわけでもないよなと、素朴な疑問符。

 読み進めている生物学によると、人間が二足歩行になったのは、一夫一婦制になったからという説が今の所有力らしい。なんだかロマンチックである。両手が扱えることで食料をいっぱい奥さんと子供に運べるようになったとか。道具は副次効果なのかね。関係ないけど、二足歩行は足が遅いらしい。

 ここで思うのは変な話、関係も自分の拡張をもたらすのだろうなということ。どう論理的に繋がっているのかは不明だけど、誰かのためとか、誰かを求めてそれが返ってくるというのは準自己人格なのだろうなと。人格の存在範囲が拡がるというかなんというか。

 僕はどうなのかという話。本を読みまくっているのは自分を拡げるなんてことはなくて、むしろ絞っているというか、凝縮する行為。道具も自分のあくまで自分の身の丈で使うから道具は道具でしかない。所有の観念がとても薄い。この今まさに文字を打ち込んでいるパソコンも、僕の範囲を拡げているものではなくて、僕が使っているだけ。なくなったらまぁ不便だろうなぁとは想像するけど、なくなったところでまぁしょうがないかというだけで、喪失感はそんなにないと思う。

 物を良く無くすという癖もこういうところと繋がっているのではと勝手に思っている。僕も一昔前は色々亡くしていた。財布とか鍵とか。年末年始のちょうど良い時に家に入れなくなって何日か疑似ホームレスしていたのは良い思い出。それでも本読んでいたけど。

 直近の元恋人さんは母親から貰った高価な物を良く無くすということだったけど、これっておそらく母親からの抑圧への無意識から来ている反発なのでは。大事にしろよーっていう押し付けに本心が抵抗している。本当はそんなものに価値置いていませんよっていう無意識の憤怒。もちろんただの想像だけど。でも、無意識の憤怒は肉体に影響するらしいから。

 要は、僕は本当の自分の形がどういうものかということに道具とされているものを使う。何処まで自分がそれを扱えるのかとか。移動手段だと徒歩が一番しっくりくるかなという感じ。自分を移動させるのは自分の体が起点だから。自分が動きたくないから交通機関を使うではなくて、自分の体では行けないところには乗せていってもらうという感覚。自分が1から作れるならともかく。

 芸術の体系がとても面白い。夢想はあやまった知覚だとか。確かに金縛りの時にカーテンのしわとか布団のしわが人の顔に変換されて割と怖い思いはしたことがある。芸術とは現実的な物質を創り出すことだというのもとても分かる。

 ただ、思い込みは本当に誤っているのかという問題提起。確かに思い込みを他人との共通項にしようとすれば、それは誤っているというか、思い込みを共通項にするためにちゃんと言語で説明できないといけない。けど、人の認識ってほとんど思い込みではないかとも思う訳で。その思い込みが一致することが自分の認識の現実性を補完するのだろうけど。これは脳科学的にも言えそう。現実とは五感の複数が一致することだそうだから、他人との一致はその延長にある。

 個人的にはそんなこと知ったことではないという立ち位置。現実感とか充足感なんて自給自足できるから、誰かと一致する感情とか感覚とか知らん。一致することで充足するという観念の人と相対したら合わせるけれど。

 でも、美は、自分が積んできたものでしか感覚することはできないとは思う。自分が美しいと思う対象がすなわち自分を顕す。美を感じることにも余裕が要るし。

 あー、想い人を想うことが思い込みの可能性について。色々想定してみた。この話書いても大丈夫だろうか、なんて考えてはいけない。パートナが居るということだからこの想いは普通に考えると無駄だし、でも、自分のことを好きかもしれないという邪念が一粒もないと言うと嘘だけど、そもそも、返ってくることが想定された想いではない。なんで触りたいのが手の甲なのだと直近の自分が送ったメッセージを見て思ったけれど、なかなかのマニアで良いかなとか。確かに触れてみたい。最近の安眠のお供は腕枕をしながら抱きしめて、「頭を撫でて良いですか」って聞いてお許しを貰って撫でる空想。

 確かに、思い込みではあるけど、思い込みを許している。物理的に在るかどうかは問題としないという観念からすれば、精神に作用するのはまごうことなき現実で。僕の祈りによって安眠できていれば申し分ないけれど、それは境界を越える観念。

 現実と非現実の境界が曖昧だという説もあるけど、僕の肉体は今の所精神と一致している。空想していて肉体が動かないこともないし、ちゃんと分けながどれも生生しいというだけ。

 

 では、みなさん良い夢を。